インドから物乞いがなくなるのは、「良いこと」なの?②

 

・物乞いがいなくなるのは、いいこと?

まずはじめに、イタリアのムッソリーニという人物を紹介したい。
こんな人物だ。

1919年、ファシスト党を結成し、22年のローマ進軍で首相となり、43年までファシズム体制の下で独裁権力をふるった。第二次世界大戦末期、パルチザン(非正規軍)に処刑された

「世界史用語集 (山川出版)」

 

さて、次の言葉を聞いたら、どう思うだろうか?

「ムッソリーニが首相になってからローマ名物といわれた乞食がなくなった」

ムッソリーニの政治家としての手腕が優れていて、「イタリアが豊かで幸せな社会になった」とイメージするだろうか?

「『常識の』非常識 文春文庫」に、その答えがこうある。

それは少しも偉くない。乞食を捕まえて収容所に入れ、街頭から一掃することは、独裁者が暴力を振るえばすぐにできる。しかしそれは乞食がいない豊かな社会をつくったということではない

このようにして、街から物乞いを「消す」ことはできる。

 

 

また、ボクがインドのコルカタに数年ぶりに行ったときに、こんなことがあった。

前にボクが来たときに比べ、物乞いの数がずい分少なくなっている。
道の両側にズラリと並んでいた物乞いが大分いなくなっている。

「インドが近年、目覚ましい経済成長を続けているから、国民生活も段々と向上しているのか」

と思ったら、実際はとんでもない。
その理由をインド人に聞くと、「しばらく前に、道にいた物乞いたちがトラックに乗せられていった。デカン高原に運ばれて行ったらしいぞ」と言う。

 

でもそのときは、そのインド人の言葉を半信半疑で聞いていた。
「物乞いをトラックに乗せて、どこかへ運んで行く」ということを、外国人も多く住む大都市で本当にやるのだろうか?

そう思ったのだけど、インドでは実際にやるらしい。

「シャルマ」というインド人ビジネスマンは、日本の街の印象をこう書いている。

日本に着いてすぐに気になったことだが、乞食の姿がどこにもいない。道すがらも、喜捨(バクシーシ)を求める人たちや、裸足の人間や、物を売りつけてくる人間がいなかった。貧民や難民の姿もまったくない。彼らはどこにいるのだろう。デリーの場合のように、トラックに積み込まれてどこかに捨てられてしまったのだろうか

「喪失の国 日本 (文春文庫)」

彼は、物乞いが「いない」ことに不安を抱いている。
それから数年後、またボクがコルカタに行ったときには、街に物乞いが「復活」していた。
それを見て、妙な安心感をもってしまった。

 

 

・日本の価値観や常識からしかものを見られなかった。

ただ、このことから改めて思ったことは、ボクは、日本の常識や視点からでしかものを見ることができていないということだ。

「街に物乞いがいない」ということを見て、「生活が豊かになった」としかイメージできなかった。
「トラックで捨てられる」ことや、ましてや「収容所に入れられる」ことなど、どうしても思い浮かばない。それは、日本の常識を越えている。

そうした観点からすれば、街で物乞いを見かけるということは、その社会が「健全」であり「いいこと」でもある。
物乞いたちが捨てられたり収容所に入れらたりしていない、ということなのだから。

 

もちろん、街に物乞いがいることを積極的に「いい状態」と考えている国はどこにもない。
経済が発展して、誰もが豊かになり、自然と街から物乞いもスラムもなくなっていることが理想的だ。
それはどこの国でも分かっていて、「貧富の格差解消」は最優先課題の一つとして取り組んでいることだろう。

 

ボクがインドで見たことから思い浮かべたインドのイメージと、実際のインドとの間にはギャップがあることはあることは、当たり前のことだ。
特に何も意識していなく、「まったく自由な状態」でものを眺めれば、日本で身につけた常識や価値観で物事を見て判断しているのだから、それは、現地の常識や実情とは違う。

 

 

・「本当のその国」とは

20年以上前にインドを旅していて、ボクから見ればインドのすべてを知っている「インドの達人」のような旅行者に会ったことがある。

「インドってどんな国ですか?」とボクが聞くと、その人は「知れば知るほど、分からないくなる。『本当のインド』なんて誰にも分からんよ」と答える。

実際のところ、「本当のインド」なんてインド人にも分からない。
インド人に聞くと、国内旅行でも違う州に行けば、使っている言葉が違っているから、現地のインド人が何を話しているかも分からないという。

 

しかし、インドでいろいろと経験したことで自分なりのイメージをもつことができ、インド人に話を聞いて彼らの認識を知ったり、インドに関する本を読んでインドの実情を知ったりすることはできる。
そうすることで、自分の「イメージとしてのインド」から、「本当のインド」に近づくことができる。
ここでいう「本当のインド」とは、現地の住んでいる人たちの認識や社会の実情のことだ。

 

それをしないで、自分のイメージを「これが本当のインドだ」としてしまうと、物乞いがいなくなった街を見て、「ムッソリーニ政権下のイタリアでは、人々が豊かになっているためだ」と勘違いしたり、「インドの経済発展がうまくいって、人々の生活が向上しているからだ」と錯覚したりしてしまう。

 

また、インドを旅しているとき、インド人の「ノープロブレム(問題ない)」を信じて、何度も問題になってイライラしたり「インド人は無責任だ!」と怒ったりしたことがあった。

 

しかしそれも、インド人の「ノープロブレム」を、ボクが日本の価値観や常識からイメージしていたことが原因で、インド人がどういう認識でその言葉を使っているのかが分かれば、「確かに、ノープロブレムだな」と今では思う。

このインド人の発想について興味がある人は、「インド流!サンガ新書」を読んでほしい。

 

 

・何も感じなければ、何も始まらない

ただ、「本当のその国」に近づくためには、まずは実際にその国に行って、自分で見て聞いていろいろなことを感じることが一番大切だ。
誤解や錯覚であれ、自分なりのイメージを持てば、それを修正する機会も出て来る。
そもそも、何も感じなければ、何も始まらない。

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。