織田信長、アフリカの黒人奴隷を日本初のサムライにする

 

「おんな城主」といえば井伊直虎のことで、「レディ・サムライ」と言われることもある。
でも日本の歴史にはレディ・サムライではなくて、アフリカ出身の「ブラック・サムライ(黒人の侍)」もいたのだ。
そのブラックサムライが映画になるらしい。

okayplayerの記事(March 27, 2017)

A Film On Yasuke, Japan’s First Black Samurai, Is In The Works

 

西アフリカのマリ

 

このアフリカ人は16世紀、戦国時代の日本にやってきた。

「やって来た」というより、黒人奴隷としてキリスト教の宣教師に「連れてこられた」というほうが正しい。

 

あるとき、イタリア人の宣教師「ヴァリニャーニ(ヴァリニャーノ)」が織田信長にこの黒人奴隷を見せる。

ヴァリニャーニ(ヴァリニャーノ)

1539~1606
イエズス会の巡察使として1579年に来日。
天正遣欧使節を率いて1582年に長崎を出航

(日本史用語集 山川出版)

 

生まれて初めて黒人を見た織田信長は、「カルチャーショックであったに違いない(詳細 日本史研究 山川出版)」という。

そりゃそうだ。

「信長公記」では、この黒人奴隷を「黒坊主」と書いている。
年齢は26歳ぐらいだったらしい。

 

信長はこの黒人を見て、その肌の色に強い興味をもった。
この世に黒い肌の人間がいるとは信じなかった信長は、「きっとコイツは、体にすみをぬっているにちがいない」と思いこむ。

信長に仕えたアフリカ人

イエズス会宣教師が、ポルトガル人によってアフリカから連れてこられた黒人奴隷を初めて信長に会わせたとき、信長はからだに墨を塗っているものと思い込み、それが肌の色であると説明してもなかなか信じようとしなかったという

(詳細 日本史研究 山川出版)

そして本当に肌が黒いのかを確かめるために、信長は彼に体を洗わせた。

そのことが上の記事に書いてある。

Yasuke’s skin color became of interest to Nobunaga, who thought Yasuke was covered in black ink (and even made him scrub himself to prove he was black).

A Film On Yasuke, Japan’s First Black Samurai, Is In The Works

*Yasuke(弥助:やすけ)は、この黒人の名前。
でもこのときはまだ弥助という名前はなかった。

 

 

「からだに墨をぬっているのではない、本当に黒い肌をしているのだ!」と知った信長は、その黒人奴隷を気にいってしまう。

そして「弥助(やすけ)」という日本人名をあたえて、その黒人をさむらいにした。
*こういうかたちで奴隷が解放されたという例は、世界史でも他に例がないはず。

こうして、「Japan’s First Black Samurai(日本初の黒人侍)」が生まれた。
くわしくは、弥助を見てください。

織田信長の優れた資質に、「人を身分ではなくて能力で判断していた」というものがある。
だから、社会的な身分としてはかなり低かった豊臣秀吉も自分の家来にした。
これは、黒人奴隷を自分の家来にしたことにも通じると思う。

 

とにかくイタリア人の宣教師に連れてこられたアフリカの黒人奴隷は、からだをあらわされた後、日本初のBlack Samurai(黒人の侍)になった。
同時に、彼が日本で最後となるBlack Samuraiにもなる。

弥助の後に、二代目Black Samurai(黒人侍)なんてのは出てこない。
J Soul Brothersじゃないんだから。

*でももし、弥助の他にも黒人の侍がいたら教えてください。

 

 

意外にも、戦国時代の日本人は黒人を差別してはいなかったという。
差別するどころか、黒人を高く評価(admire)していたらしい。

Black people at that time were not discriminated but admired

A Film On Yasuke, Japan’s First Black Samurai, Is In The Works

でも「差別視をしていたかどうか」は、何を基準にするかによって変わってくる。
日本の資料では、差別視していたようなものもある。

黒人がどのように「admired」されていたのかは、記事全体を読んでほしい。

 

セネガルの小学校か中学校。
ランドセルを背負ってる!

 

日本初の黒人侍「弥助やすけ」は、1582年におきた本能寺の変のときも織田信長のそばにいた。

そして主君信長のために明智光秀の軍と戦っている。

天正10年6月2日(1582年6月21日)の本能寺の変の際には弥助も本能寺に宿泊しており、明智光秀の襲撃に遭遇すると、二条新御所に行って異変を知らせ、明智軍と戦った末に投降して捕縛された。

(ウィキペディア)

 

このとき自殺した信長は自分の首と刀を息子に渡すよう弥介に頼んだという。
最期の最期まで信長といたのだ。

でも弥助は生きたまま明智軍にとらえられる。
でも光秀は「この黒人侍をどうするか?」と対応に困ったらしい。

明智光秀は、「黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず」として処刑せず(ウィキペディア)」として、弥助は命を助けられることになった。

この後の弥助の消息はよくわかっていない。

織田信長は日本初の黒人侍をいずれは城主(殿様)にしようと考えていたという。

 

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日本に到来したイエズス会宣教師などの南蛮人たち。
白人に連れられる黒人奴隷の召使も描かれている。(ウィキペディア)

いろいろな資料によると、日本初の黒人侍となったアフリカ人はモザンビーク(当時はポルトガル領)の出身だったらしい。

According to various sources, Yasuke was likely from Portuguese Mozambique and served Nobunaga from 1581 to 1582.

A Film On Yasuke, Japan’s First Black Samurai, Is In The Works

 

おまけ

「水戸黄門」で有名な水戸光圀みつくにも、黒人を家来にしている。

蝦夷地(後の石狩国)探索のため黒人を2人雇い入れ、そのまま家臣としている。

(ウィキペディア)

黒人が北海道を調べたというのも不思議な感じがする。

 

 

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アフリカの旅(国)が、こんなにひどいなんて聞いてなかったから。

 

2 件のコメント

  • 水戸黄門で有名な徳川光圀が、オランダ人商人の奴隷であった黒人男性2人を引き取り、蝦夷地探索の仕事を任命したそうです。
    無事戻ってきた二人はその後、水戸藩の譜代の家臣として召し抱えられ、廃藩置県で藩が解体されるまで子孫が代々仕えていたという記録が残っているそうです。
    ※私自身はその記録文を読んでことはなく、インターネットで知りました。

  • それはおもしろいですね!初めて知りました。
    ウィキペディアにも書いてあったので、記事にのせておきました。
    貴重な情報をありがとうございます。

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    今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。