インドの歴史①ムガル帝国の皇帝アクバル、成功と人気の理由

 

インドカレーは好きですか?

本格的なインド料理の店に行くと、カレーといっしょによくこんなナンが出てくる。
カレーはインドで生まれたインド料理だけど、ナンはそうではない。

 

 

「ナン」という言葉はインドの言葉ではなくて、じつはペルシャ語。

「パンの図鑑」にこう書いてある。

「ナン」とはペルシャ語でパンを意味する為、国や地方によって形は様々で普通のパンのような丸形のものも多く見られます。

ナン

インドにはもともとナンのようなパンはなかった。
ナンは外部勢力であるイスラーム教徒がインドに持って来たもの。

カレーはインドで生まれたけど、ナンは外国で生まれている。
だからカレーとナンという組み合わせは、まさにヒンドゥー教とイスラーム教の融合の象徴でもある。

ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒が対立しないようにうまくコントロールすると、インドの統治はうまくいく。
そんなインドの歴史をこれから見ていこう。

 

 

タージマハルもまた、イスラームとヒンドゥーの融和の象徴だ。

ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、1631年に死去した愛妃ムムターズ・マハルのため建設した総大理石の墓廟。インド・イスラーム文化の代表的建築である。

「ウィキペディア」

 

高校で世界史を学んだ人やインドに興味がある人なら、「ムガル帝国」という国を聞いたことがあると思う。
初代皇帝はバーブルで、1526年から1858年までインドにあった帝国。

まあ滅亡するときには、インドを支配する力なんてほとんどなかったけど。

インドにムガル帝国があった時代というのは、日本では戦国時代から江戸時代にあたる。
1534年に織田信長が生まれて、その2年後の1536年に豊臣秀吉が誕生している。
そしてムガル帝国がなくなる1年前の1867年には、徳川慶喜による大政奉還があって江戸時代が終わった。

 

ムガル帝国のお城
でかい・固い・強いの3拍子がそろっている。

 

ムガル帝国については高校世界史でこう習う。

ムガル帝国 1526~1858

インドのほぼ全域を支配したイスラーム王朝。名称はモンゴル帝国に由来する。バーブルにより建国され、第3代アクバルから第6代アウラングゼーブまでが最盛期であった。

「世界史用語集(山川出版)」

 

下の地図は皇帝アウラングゼーブがいたころのムガル帝国。
この時代のムガル帝国はとても強大で、最大の領土をもっていた。

 

 

これを見ると、ムガル帝国はたしかにインドのほぼ全域を支配していた。
・・・かのように見える。

でも、実際にはそうでもない。

右上に大きな黒丸がある。
これはラジャスタン州をあらわしている。
このラジャスタンを支配していたのはイスラーム教徒ではなくて、ヒンドゥー教徒だった。

ラジャ(ラージャ)とはインドの言葉で「王」という意味になる。
さらに強大な大王になると「マハラジャ」という。むかしそんなディスコがあった。
ヒンドゥー教の王たちがこのラジャスタンを統治していた。

 

ラジャスタン州で見た家

 

イスラーム教のムガル帝国はヒンドゥー教の王たちを滅ぼして、ラジャスタンを完全に支配しようとはしなかった。
形式的にムガル帝国に服属していれば「まあ、それでいいか」と考える。

そしてラジャスタンの王たちと敵対するのではなくて、友好的な関係を築こうとする。
それが先ほど出てきたアクバルというムガル皇帝。

ちなみに、ヤフーで「アッラー」と入れると「アッラー アクバル」と出てくる。
イスラーム教徒はこのアクバルという言葉をとてもよく使う。
アクバルは「偉大な」という意味で、アッラーアクバルとは「神は偉大なり」という意味になる。

この偉大なアクバル皇帝について世界史用語集(山川出版)にはこう書いてある。

宗教的には寛大政策をとり、ジズヤを廃止するなど諸宗教の融合を目指した。

 

アクバルはこう考えた。

「インドを支配するためには、ヒンドゥー教徒と仲良くする必要がある。そのためにはヒンドゥー教の信仰を禁止してはいけない。彼らに対しては寛大かんだいにならなきゃダメだ」

そう考えたアクバルは、ラジャスタンのヒンドゥー王の娘と結婚している。

ムガル帝国のアクバルの統治方針は、ラージプートなどの在地勢力を自らの支配層に取り組むために、彼らが所有する領地からの収入を認めるとともに、ヒンドゥーであるラージプート出身の女性を妻とした

「ウィキペディア」

 

これは日本でもよくあった。
戦国時代には、他国と友好関係を築くために相手国の女性と結婚をすることはよくおこなわれていた。

このアクバルが寛大だったのは、このヒンドゥー教の妻をイスラーム教徒に改宗させなかったこと。
ヒンドゥー教の信仰を許している。

 

ラジャスタンのヒンドゥー王と会うアクバル(ウィキペディアから)

 

これはイスラーム教の王にしては異例の対応だ。
イスラームの王で妻を異教徒のままであることを認めた王なんて、ムガル帝国しか知らない。

ヒンドゥー教徒にやさしかったアクバルは、今のインドでとても人気がある。

アクバルは、先述のアショーカ王やスール朝のシェール・シャーとともに最も成功した君主であり、インドの最も偉大な王であり融和の象徴として、現在のインドでも人気が高い。

「ウィキペディア」

先ほども書いたけど、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒が対立しないようにうまくコントロールすると、インドの統治は成功する。

まさにナンとカレーの関係ですね。

 

こうしたわけでイスラーム教のムガル帝国の中でも、ラジャスタンではヒンドゥー教の王が支配していた。
ムガル皇帝から高度な自治を認められていたため、ラジャ(王)やその民はヒンドゥー教の信仰を守って生活することがきていた。

つまり、現在の中国以上の「一国二制度」をムガル帝国が実現していたことになる。
中国共産党は「社会主義の中国にあって、香港では資本主義を認める」なんてことをいっていたけど、実際には、ムガル皇帝がラジャスタンに認めたほどの自由を香港には認めていない。

 

「ヒンドゥー教徒と仲良くしていればインドをうまく統治できる」というアクバルの成功を、その次の皇帝たちも受け継いでいく。
だからムガル帝国の支配は安定し、最盛期をむかえるまでになった。

でもそのすべてをアウラングゼーブという皇帝がぶち壊してしまう。
続きは次回に。

 

おまけ

インドのオルチャというところのラジャ(ヒンドゥー王)のお城。
日本のお城とは全然ちがう。

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。