「あのさあ、ガンディーのやり方が、ヒトラーやポル・ポトにも通じたと思う?」③


 

 ・ガンディーの非暴力・不服従運動とは?

 

 ようやく、ここから、あのおっさんに聞かれたことを考えたい。
「あのさあ、ガンディーのやり方が、ヒトラーやポル・ポトにも通じたと思うの?」
ボクが、答えられなくて、「ぐぬぬ」となってしまった質問だ。

 

 ナチスやポル・ポト政権の支配下で、ガンディーのサティヤーグラハ(非暴力・不服従運動)が通用したか?

 

 ガンディーは、イギリス人と武力で戦うのではなく、「非暴力・不服従運動」で対抗するように唱えた。しかし、それは、決して「無抵抗でいろ」という意味ではない。

 

 「サッティヤーグラハ、または魂の力は英語で『受動的抵抗(パッスィヴ・レジスタンス)といわれています。この語は、人間たちが自分の権利を獲得するために自分で苦痛に耐える方法として使われています

(真の独立への道 岩波文庫)」

 

 と、あるように、「非暴力・不服従運動」はイギリスへの抵抗の手段として使っていた。
逆に、納得できないような理不尽な命令に従うような「無抵抗な状態」を、激しく非難している。

 

「法律が気に入らないにもかかわらず、それに従うような教育は、男らしさに反しますし、宗教に反しますし、隷属(れいぞく)の極みです」

(同書)

 

 そして、「非暴力・不服従運動」の具体的な例として、著書「真の独立への道 岩波文庫」で挙げているのは、「脱出」「断食」「抗議の自殺」だ。
 ただ、ナチスやポル・ポト政権を相手に、こうしたサティヤーグラハ(非暴力・不服従運動)の抵抗が通じたのだろうか。

 

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・アウシュヴッツの収容所やツールスレンの中で通じたか?

 

 まず、アウシュヴィッツの収容所やツールスレン刑務所に入れられたら、もうここではさきほどの「非暴力・不服従運動」は、とてもできそうにない。
実際に、アウシュヴィッツの強制収容所では、ガス室に入る際に最後の抵抗を見せるユダヤ人もいた。しかし、
「アウシュヴィッツ収容所 講談社学術文庫」によれば、それは絶望的に無力なものだった。

 「また、ある老人は、通りすがりに、舌打ちしながらののしった。『こんなたくさんのユダヤ人を殺しおって、ドイツはきっと酷い報いを受けにゃすまさんぞ』その時、彼の目は憎しみに燃えていた
(アウシュヴィッツ収容所 講談社学術文庫)」


「私の体験した中で、こんなこともある。ある女がドアの閉められる瞬間、自分の子供たちを部屋から押し出そう として、泣きながら叫んだ。『せめて、せめて、子供たちだけは、生かしてやって!』(同書)」


このように、ここに連れて来られた人ができた最大限の「抵抗」とは、ドイツ人をののしることや泣き叫ぶことぐらいだったのではないか。

 

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 これは、ツールスレン刑務所に連れて来られたカンボジア人も同様で、「(ポル・ポト〈革命〉史 山田 寛)」では、必死の抵抗を見せた囚人の様子が書かれている。

 

 あるとき、無実の罪で「ネイ・サラン」というカンボジア人がツールスレン刑務所に連れて来られた。
彼は、ツールスレンで拷問を受けてから供述書にこう書いた。

「私は、九月二八日以後、ひどい拷問を受けた後で尋問に答えた。そのことを明らかにしておきたい」

 この記述が、刑務所の所長だったドッチには気に入らなかった。再度ネイ・サラン書かせた供述書は、このようなものだった。

 

「ネイ・サランはまた挑発的に書いた。『私に答えを強制したいなら、拷問するがいい』(同書)」


その後、ネイ・サランには、ムチと電線による拷問が二週間ほど繰り返された。最後には、実際にはしていない「裏切り行為」を白状させられ、殺された。

 

 ここでできた「抵抗」とは、拷問に耐えて、殺される時間を延ばすことだけだ。
アウシュヴィッツの収容所やツールスレン刑務所のこのような状況で、人々に、「非暴力・不服従運動」を望むのは、酷過ぎる。

 

 できたことがあったとすれば、そこから「脱出」することくらいだ。
ツールスレンから脱出できた例は知らないが、アウシュヴィッツの収容所からは脱出できた例はある。
しかし、その代償はあまりに大きく、一人の囚人が脱出したら、「罰」として10人の関係ない囚人が銃殺されたり餓死させられたりしていた。

 

 ここで、ぜひ、覚えてほしい人物がいる。

 あるとき、収容所から脱走者が出たため、例のごとく、10人のユダヤ人が餓死させられることになった。そのとき、一人の囚人が、妻子を思って突然、泣きだした。それを見て、ある人が進み出て言った。

 

 「『自分は、妻子あるこの人の身代わりになりたいのです』所長は驚きのあまり、すぐには言葉が出なかった。囚人が皆、過酷な状況の中で自分の命を守るのに精一杯なのに、他人の身代わりになりたいという囚人が現れたのだ。(聖コルベ館HPより)」

 

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コルベ神父(ウィキペディアより)

 

 この人物が、コルベという神父で、彼の身代わりになって死んでいった。しかし、このコルベ神父の自己犠牲をもってしても、ナチスの態度を改めさせるにはいたらなかった。

 

 では、こうした収容所や刑務所に入れられる前なら、「非暴力・不服従運動」は通用したかというと、それも現実的ではなさそうだ。
 ガンディーは、納得がいかない命令には、命をかけても従わないようにと言っている。

「サッティヤーグラハは、気に入らない法律を受け入れないようにといいます。たとえ後で砲口に縛りつけられようとしてもです!

(真の独立への道 岩波文庫)」

 

 ガンディーは、「イギリスの許可なく塩をつくってはいけない」という理不尽な命令には従わずに、「塩の行進」をして自分で塩をつくっている。
 実際には、そのように挑発的な抵抗しても、実際にはガンディーは、イギリス人に砲口に縛られることも殺されてもいない。
しかし、ナチスやポル・ポト政権下では、そうはいかなそうだ。

 「アウシュヴィッツの地獄に生きて 朝日選書)」には、こんな記述がある。
 この著者のユダヤ人がポーランドに住んでいた時代、ユダヤ人が結婚式を挙げるときは、ユダヤ教の神の名ではなく、ヒトラーの名において行わなければいけなかった。

 

 「これに反対した人も大勢いましたが、そういった人たちは気の毒にも簡単に消されてしまいました」


これ以外にも、ポーランドでは、反ナチスのゲリラ活動があったというが、失敗している。

 

また、ポル・ポト政権下のカンボジアでは、次のような民衆の抵抗運動が起きていた。

「三月にシェムリアプに近いチクレン郡では、実際に数百人規模の民衆蜂起が起きたと伝えられる。武装蜂起というと格好よいが、その武器はせいぜい中世の農民一揆のようなナタやナイフ。あっというまに終わった。党中央が地区の旧幹部一掃のため、蜂起をやらせたとの見方もある。参加農民は皆殺しにされた。下も殺し、上も殺す

(「ポル・ポト〈革命〉史」 山田 寛)」

 

 イギリス支配の場合、インド人が死を覚悟した抵抗をしても、イギリス人は彼らを殴ったり、監獄にいれたりしたが、殺すことはなかった。あっても、例外的なことだっただろう。

 

 しかし、ナチスやポル・ポト政権の支配では、少しの抵抗を見せれば、いとも簡単に殺されている。上の抵抗が、民衆蜂起という暴力的な手段でも、平和的な手段であって結果も同じで、武力で抑えられただろう。

 イギリスに通じたことは、ナチスやポル・ポト政権には通じないようだ。

 


投稿者: kokontouzai

今まで、東南アジア、中東、西アフリカに旅をしてきました。外国に行って初めて気がつく日本の良さや特長があります。以前、歴史を教えていたので、その経験もいかして、日本や世界の歴史や文化などをテーマに、「読んでタメになる」ようなブログを目指します。

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