インド人とインパール作戦。今も尊敬される日本人とは?

 

インターネットでの書きこみで、「無茶しやがって」というスラングがよく使われる。

「そんなの絶対にムリ!」という無謀なことに挑戦して、散ってしまった人に対してかける言葉だ

こんなAAが使われる。

「無茶しやがって」には、敬意や悲哀が込められている。

 

 

最近はこんなバージョンもある。

 

 

さて、ここからは真面目な話。

太平洋戦争のさなか、1944年に「インパール作戦」という日本軍による侵攻作戦がおこなわれた。
これは太平洋戦争のなかで、もっとも過酷で悲惨な戦いの一つと言われている。

インパールさくせん【インパール作戦】

無謀な計画のため日本軍は大敗、ガダルカナル以上の惨状を呈した。

大辞林 第三版の解説

インパールは今のインドにあって、下の地図だと北海道のあたりになる。

 

ミャンマーの東北部で、日本軍とイギリス軍が戦った。
このとき日本軍は、参加者10万人のうち3万人ほどが死亡したとされる。
歴史的に残る大惨敗だ。

十分な、というより、最低限の食料も装備もないまま向かってしまったから、こうなった。

補給線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戦の代名詞として現代でもしばしば引用される。

「ウィキペディア」

ネット用語のような軽い言葉ではないけれど、本当にムチャをした。

 

インパール作戦だけかは分からないけれど、静岡県だけでも、2700人ほどがビルマ(ミャンマー)で亡くなっている。

 

ビルマのジャングルは、とても暑いし湿度も高い。
ここでの遺体の腐敗はとても速く、すぐに骨になったという。

日本軍が撤退した道は、日本兵の白骨が点々と並ぶ「白骨街道」と呼ばれた。
読売新聞から。

太平洋戦争の中でも最も無謀な作戦といわれた「インパール作戦」。飢えやマラリアなどの病気で消耗した兵士たちがばたばたと倒れた退却路は「白骨街道」と呼ばれた。

戦後70年に学ぶ ミャンマー白骨街道のいま

このときの様子をイギリス軍の兵士がこう書いている。

ボロボロの軍服を着た白骨に、別の白骨がもたれかかり、その上にまた別の死体がもたれかかっている。

三つ目、四つ目の死体になると、死んで間もないためにまだ内臓が残っており、ウジがわいていた。

「責任なき戦場 インパール (角川文庫)」

また別のイギリス軍兵士は、日本軍の野戦病院で、こんな光景を目にした。

その死体のかたわらには、兵士の妻や子ども、恋人の写真、富士山や桜の花、梅の花の絵葉書、そして日記帳などが落ちていた。今際(いまわ)のきわに、思い断ち難く眺めていたと思われた。胸が締めつけられるような光景だった

(同書)

同じ日本人でも、生まれた時代が違うとこうなってしまう。

 

 

山形の河北新報に、インパール作戦の記事(2017年12月19日)がある。

<インパール作戦>佐藤中将の菩提寺にインドの青年から鎮魂と友好願う油絵「今も現地住民に慕われていることに感銘」

 

インパール作戦での指揮官の一人、佐藤幸徳中将の墓が山形県にある。
日印友好を願うインドの青年たちが、そのお墓がある寺に油絵を贈ったことが記事で紹介されていた。

青年たちは11月上旬に訪日した際、インパール作戦で大勢の犠牲を出した日英の和解・交流を進める庄内町の「英国と日本の国際理解と交流を促進する会」の代表者と面会。佐藤中将が現地で今も尊敬されていることなどを伝え、絵画を寄贈した。

インパール作戦の佐藤中将が今も現地で尊敬されている。
こんなことは初めて知った。

 

インパール作戦で亡くなった日本人の魂をなぐさめるために、日本を訪れるインド人がいる。
その一方で、インパール作戦を知っている日本人は少なくなっていると思う。

でも、これは風化させてはいけない。

 

インパール作戦の様子(ウィキペディアから)

 

インド人が佐藤中将を尊敬する理由には、インドの英雄チャンドラ・ボースの影響があると思う。

インドのコルカタ空港にいるチャンドラ・ボース。
この空港は「ネータージー・スバース・チャンドラ・ボース国際空港」という名称で、この英雄からつけられた。

 

チャンドラ・ボースはインドの独立運動家で、「武力による独立を目指し日本の支援でインド国民軍を組織した(世界史用語集 山川出版)」という人。

ボースは日本で開かれた大東亜会議に参加している。

 

来日したチャンドラ・ボース
「NHK映像の世紀 11」のキャプチャー

 

中央左がチャンドラ・ボース
画像は「NHK映像の世紀 11」のキャプチャー

 

大東亜会議の出席者(ウィキペディアから)。
左からバー・モウ(ビルマ)、張景恵(満州国)、汪兆銘(中華民国)、東條英機(日本)、ワンワイタヤーコーン(タイ)、ホセ・ラウレル(フィリピン)、スバス・チャンドラ・ボース(インド)。

 

大東亜会議は1943年11月に開かれた。

列国代表を東京に集めて開いた会議。大東亜共同宣言を採択し、内容は大東亜共栄圏の結束を誇示しようとしたもの。

「日本史用語集 (山川出版)」

この会議に先立って、ボースはこんな声明を出している。

日本こそ19世紀にアジアをおそった欧米の侵略を食い止めんとしたアジアにおける最初の強国であった。
アジアが復活するには現在においても強力な日本が必要である。

「ボースの声明(NHK映像の世紀 11)」

 

チャンドラ・ボースはインド国民軍をひきいて、日本軍と行動をともにしていた。
このインド国民軍がインパール作戦に参加している。

 

ボースには、当時の日本人がほれてしまうほどのカリスマがあったという。

河辺中将はボースのインド独立にかける熱意とその態度を見て、「りっぱな男だ。日本人にもあれほどの男はおらん(ウィキペディア)」と高く評価している。

 

おまけ

ミャンマーの市場の様子。

 

今回の記事と重なるところはありますが、よかったらこちらもどうぞ。

東南アジアで戦争と平和を知る。日本軍のインパール作戦とは?

インドで尊敬されるチャンドラ・ボースと日本軍のインパール作戦

日本とインドの関係(歴史):チャンドラ・ボースは知っておこう。

 

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今まで、東南アジア、中東、西アフリカに旅をしてきました。外国に行って初めて気がつく日本の良さや特長があります。以前、歴史を教えていたので、その経験もいかして、日本や世界の歴史や文化などをテーマに、「読んでタメになる」ようなブログを目指します。