海外へ渡って活躍した戦国武士たち・山田長政の”男の生き方”。

 

「ほほえみの国」と呼ばれるタイは、おだやかでとてもリラックスできる国だけど、南部に限ってそれはない。
タイの南部では、今までに爆弾テロなどで、7000人ほどが亡くなっている。

今月もテロがあって、20人以上の死傷者が出た。
タイには、そんなコワいところもある。

その記事を書くために「パタニ王国」について調べていると、ウィキペディアでこんな文を見つけて「おっ」と思った。

長政は1630年、パタニ軍との戦闘中に脚を負傷し、傷口に毒入りの膏薬を塗られて死亡した。

長政って、パタニ王国の軍と戦ってたんだ。
でもって、そのときに死んだのか。

長政といえば、静岡県民のボクの大先輩にあたる人。
ということで今回は、山田長政という男の生き方を全国の人たちに知ってもらいたいと思う。

 

 

突然ですが、クエスチョン。

1600年に起きた戦いは何?

 

答えは「嫁と姑の戦い」、ではなくて、関ケ原の戦いですね。
徳川家康が率いる東軍と石田三成の西軍が戦った超有名な戦い。
これに家康が勝利することで、戦国時代はほぼ終わりをむかえる。

大阪夏の陣(1615年)で豊臣氏が滅んだ次の年、江戸幕府は「全国のみんな!もう戦争の時代は終わったんだよ!」ということを日本中に知らせるために、元号を「元和(げんな)」とした。
*今の日本では「天皇1代=1つの元号」という「一世一元の制」だけど、この時代はちがうのさ。

これが日本史で習う「元和偃武(げんなえんぶ)」だ。

元和偃武

大阪夏の陣(元和元年)で、戦国以来の戦乱が終わり、平和になったこと。偃武は武器を伏せ収めるの意。

「日本史用語集 (山川出版)」

おまえは平和というか、ノー天気だな。

 

この時代に多くの戦国武士が東南アジアに渡っていた。

関ケ原の戦いや大阪の陣で負けた側にいた武士たちは、もう日本で活躍する場がなくなり、生きることもずかしくなってしまった。
そうした落ち武者たちが海外に目を向ける。

歴史学者の小和田哲男氏がこう書いている。

国内で士官の望みが絶たれた関ヶ原浪人たちが、新天地を海外に求めることは十分考えられることであり、それに、大阪の陣後、大阪城に籠城していた城兵たちの中で、海外に夢を求めて出ていった人びともかなりの数におよんだことが考えられる。

「史伝 山田長政 (小和田哲男)」

この時代の武士たちは口々に、「そうだ、アジア行こう。」と言っていたという(ウソです。JRのパクリです)。

日本でかごをかついでいた山田長政も「海外で、でっかい花火打ち上げてやるか!」と決意し、タイへ飛んだ。
ではなくて、長崎から朱印船に乗ってタイへと向かったのだった。

山田長政 ?~1630

駿河の人。1612年頃、タイのアユタヤ朝に渡り、アユタヤ日本町の長。のちにリゴール(六昆)太守となるが、政争で毒殺された。

「日本史用語集 (山川出版)」

「駿河の人」ということで、今なら静岡県出身の人になる。

 

山田長政(ウィキペディアから)

 

今のアユタヤ

 

元和偃武(げんなえんぶ)で「武器よ、さらば」となった日本とは違って、この時代の東南アジアはバトルロイヤル。

カンボジアやビルマと戦っていたアユタヤ(タイ)の王様は、「どっかに強い戦士はいないかなあ。金ならあるんだけどなあ」と思っていた。

そんな時、出会ったのが戦国武士です。

戦国時代を戦い抜いた日本の武士の戦闘レベルは、東南アジアでは異次元。

戦国時代を経験していないシャムやカンボジャ、ルソンなどの国々の人びとにとって、戦国の経験をもつ日本の武士は脅威だったのではなかろうか。一人ひとりの武力がすぐれていたというだけではなく、その戦略にしても戦術一つをとってみても、そのころの東南アジア諸国よりも数段上をいっていたことはいうまでもない。

「史伝 山田長政 (小和田哲男)」

山田長政は、日本にいたころは武士として戦っていたわけではなかったけど、強くて統率力もあった。
アユタヤでは、日本人部隊の隊長をまかされていた。

そして無双。

長政率いる日本人部隊はスペイン艦隊にたちむかい、奇襲によってスペイン艦に火を放ち、大勝利を得ている。長政のこの働きによってアユタヤの平和が保たれたといっても過言ではない。

「史伝 山田長政 (小和田哲男)」

この戦いによって、長政はアユタヤ王から信頼されるようになったという。
そしてアユタヤ王国の貴族にまでなった。

 

この時代、東南アジアでは象に乗って戦っていたから、山田長政も乗っていたかも。

 

その後、長政はリゴールというところの太守になる。
本によっては”リゴール王”と書いてある。
言い方はどうあれ、沼津でかごをかついでいた山田長政はアユタヤに渡った後、スペイン軍を撃破して貴族になり、リゴールの地を支配する人間となった。

でも、パタニ軍との戦いのときに毒殺され、生涯を終える。

 

現代であれば、山田長政の生き方は、きっと情熱大陸やアナザースカイで取り上げられるはず。

「なつかしいなあ。このへんもずい分変わりましたねえ。あ、ここでボク、脚をケガしたんですよ。それでその後、毒殺されたんですよね」

って、これじゃイタコ番組ですね。

 

アユタヤはバンコクのすぐ上、パッタニーは静岡県のところにある。

 

友人のタイ人に「ヤマダ ナガマサ」と言っても通じなかった。

山田長政のタイでの呼び名「オークヤー・セーナーピムック」と言うと、「ああっ!その人ですか!学校で習いました」とすぐ分かった。

 

おまけ

静岡市では毎年「長政まつり」が開かれている。

山田長政は、駿府の馬場町で生まれました。

その生家跡には、現在長政像(左写真)が建っています。

長政まつり

アユタヤの様子

 

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今まで、東南アジア、中東、西アフリカに旅をしてきました。外国に行って初めて気がつく日本の良さや特長があります。以前、歴史を教えていたので、その経験もいかして、日本や世界の歴史や文化などをテーマに、「読んでタメになる」ようなブログを目指します。