アメリカ人と京都旅行⑤~キリスト教の「GOD」と日本の「神」の違い~

 「日本人が、自由に守りを買ったり初詣に行ったりすることは知っているけど、私にはちょっと変な気がする。それって、『自分中心』じゃない?」

と、言われても、そんなことを考えたこともなかった。
じゃ、アメリカ人はどうなの?

「アメリカ人なら、試験や仕事の成功を祈ることがあったら、自分が信仰する宗教の施設に行くわ。キリスト教徒なら教会、イスラム教徒ならモスク(イスラム礼拝所)、みたいに。だから、『宗教に関係なく、自分の好きなところでお守りを買う』っていうのは、結局、『人が神を選んでいる』ってことじゃない?」

そうかもしれない。
それは、アメリカだけじゃなくて、世界中の人がそうだろうね。
何かの願いごとをするとき、
キリスト教徒がモスクに行ったり、イスラム教徒がキリスト教の教会に行ったりすることは、普通、考えられない。

 

 そういう視点からすれば、確かに「日本人は神や仏を選んでいる」ように見える。

 「自分の宗派以外のお寺には行かない」という友人はいる。
でも、これは例外。
ほとんどの日本人は、自分が行くお寺や神社、買いたいお守りは、自分が選んで決めている。
ボクの場合、宗教は仏教の曹洞宗だけど、それを意識したことはない。
仏教や神道という宗教の違いも、仏教の中の宗派の違いも関係なく、行きたいところに行って、欲しいお守りを買っている。

 

 これは、アメリカ人にはなじみがない考え方だという。
彼女の話を聞いていると、まず、キリスト教の「GOD」と、日本の「神」とは、まるで違う存在であることが分かった。

 キリスト教(プロテスタント)の彼女にとっての「GOD」は、「この世界のすべてをつくった絶対的な存在」であるらしい。
そして、人間もまたGODによって造られたもので、GODの前では、人は本当に本当に小さな存在であるという。

 

 日本の「神」とキリスト教の「GOD」は、確かに違う。

 このことは、日本人向けのキリスト教の解説書にも書いてある。
「聖書のことがよくわかる本 鹿嶋 春平太」では、「GODを『神』と勘違いしてはいけない」という章で、次のように書いてある。

 「バイブルでのゴッドはそういう漠然としたものではない。『この世のすべての存在を造った創造主』と、意味が限定されている。意味が限定されているにもかかわらず、ゴッドを『神』と呼んでしまうと、バイブルでいうゴッドも、われわれ日本人の感覚で認識してしまう」

 

 さっきも書いたけど、キリスト教でいう「ゴッド(神)」は、この世のすべてを造った創造主(Creater)のことをさす。
その意味に限定されているという。
これは、日本の「山の神」や「商売の神」といったものとは、まったく別の存在になる。

 

 この文の中の、「創造する(この世のすべての存在を造った)」という考えは、日本ではあまりなじみがない。
だから、どういうものかつかみにくいと思う。
そこで、「GODが創造する」ということは、どういうことかをもう少し詳しく見たい。

 

 「『創造する』って、どういうことか。わかりやすいのは、モノです。モノは、つくることができて、壊すこともできる。所有したり、好きにできる。モノは、つくったひとのもの。つくった人の所有物なんです。Godが人間を『創造した』のなら、Godにとって人間は、モノみたいなもの。所有物なんです。

 つくったGodは『主人』で、つくられた人間は『奴隷』です。人間を支配する主人が一神教の『God』なんですね
(ふしぎなキリスト教 講談社現代親書)

 

 キリスト教では、GODにとって人は「モノ」であり、「奴隷」でもある。こういう考えがあるから、彼女は「GODの前では、人は本当に本当に小さな存在」という認識をもつようになったんだろう。

 

 神をこうした絶対的な存在だと考えていれば、「どこに行って、何のお守りを買おうとかな?」と日本人が考えることは、「どの神(仏)にしようかな?」というように見えるのだろう。
そうしたら、「神を選んでいる」と見えも不思議ではない。

 

  GODを「創造主」と考えている人にとっては、この日本人の発想は、自己中心的であったり、不遜に感じたりするのだろう。
いくら、人間に権利や自由が認められていても、「人間が、自由に神を選ぶ権利」なんてのは、キリスト教の世界にはないだろう。
イスラム教にユダヤ教にも。

 

 キリスト教徒にとってのGOD(創造主)がどのような存在かは、大まかなイメージがつかめたと思う。
じゃあ、日本人にとって神とはどんな存在なんだろう?

 

 日本には、「八百万(やおろず)の神々」と言われるほど、数えられないほどの神がいる。山や川の神いれば、トイレの神も貧乏神もいる。
でも、日本の神には、この世のすべてを造った「創造主」という神はいない。

 

 この創造主の考え方からすれば、ローマ法王もアメリカ大統領も周近平主席も神によって「造られた」ことになる。
こういう意味での「神(創造主)」は、仏教や神道の神仏にはいそうにない。

 

 日本人にとって、日本の神はGODよりも、もっと人間に近く親しみのある存在だと思う。

稲荷神社を「お稲荷さん」と言ってもいいし、ボクが京都に住んでいたときは、清水寺を「清水さん」と呼ぶ人もいた。
日本では、神や仏がいる寺社に親しみの気持を込めて「~さん付け」で呼ぶことは広く行われている。  

 

 それは、日本で最高位とされる伊勢神宮も同じで、「お伊勢さん」と呼んで何の問題もない。
伊勢神宮のHPによれば、次のようにある。

 

 「皇室の御祖先の神と仰ぎ、私たち国民の大御祖神(おおみおやがみ)として崇敬を集める天照大御神(あまてらすおおみかみ)をお祀りする」

 

 「『お伊勢さん』『大神宮さん』と親しく呼ばれる伊勢神宮は、正式には『神宮』といいます」 とある。
伊勢神宮を「さん付け」で呼ぶことは、決しておかしいことでもいけないこともなく、常識的なことであることが分かる。

 

 もちろん、キリスト教徒やイスラム教徒にとって、教会やモスクが近寄りがたい場所だとは思わない。
親しみを感じる場所だとは思うけど、日本人のように「~さん」と擬人化して呼ぶような親しみはないだろう。

 

 日本では、その道に秀でた技術があれば、「野球の神」と「~の神」と呼ばれて、神になることができる。
それに、単に「普通以上」のものであれば、「神サイト」と「神~」と呼ばれることもある。
このように気軽に神の名を用いることは、GODでは許されない。

 

 日本人にとっての神は、人を越えた存在で、敬意を払うべき対象だけど、決してキリスト教のGODのような存在ではない。
日本人にとっての神は、人のはるか上にいるのではなく、親しみや愛着を感じるような人に近い存在だと思う。

 

 「神は、人に近く親しみがある存在だ」という考えをもっていると、先ほどのキリスト教でのGODの認識はちょっと受け入れにくい。
人間は神にとって、「モノみたいなもの」「所有物」「奴隷」であると聞くと、抵抗感を覚える人も多と思う。

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今まで、東南アジア、中東、西アフリカに旅をしてきました。外国に行って初めて気がつく日本の良さや特長があります。以前、歴史を教えていたので、その経験もいかして、日本や世界の歴史や文化などをテーマに、「読んでタメになる」ようなブログを目指します。