アメリカ人と京都旅⑩ 日本とアメリカとの宗教観(誓い方・宣誓)の違い

 

前の記事で、これを書くのを忘れていた。
ニューヨークに住むアメリカ人から聞いた話。

最近、ニューヨークであるイスラム教徒のアメリカ人が裁判官になっている。
裁判官になるときは、職務の宣誓をしないといけない。
そのイスラム教徒は、クルアーン(英語:コーラン)に手を置いて、自分がアメリカ(ニューヨーク)で裁判官になることをアラーに誓ったという。

アメリカ人の彼女にとってもこれは初めて聞いたことで、「興味深い」と話していた。
こういうことは、日本じゃないだろうなあ。
さすが、世界中の人種や宗教が集まる国アメリカ。

 

 

さて、前回の続き。

アメリカでは、大統領が就任するときに、聖書に手を置いて神に誓う。
裁判所で証言するときにも、神に誓う。

こうした行為は、キリスト教の精神にもとづいている。
人は、God(創造主・神)によってつくられているという考えがある。
そして、人がその神と契約を結んでいて、神にウソをつくことはできないという考え方もある。
アメリカには、そうした考え方が伝統的にあって、議会や日常生活で神への宣誓が行われている。

 

でも、日本には創造主という神もキリスト教のような上下契約という考え方が伝統的にない。
だから、日本では、首相が就任するときは、神でも仏でもなく、国民に誓っている。これは、アメリカとは大きく違う。

では、一般の日本人が宣誓するときは、何に誓うのか?

普通の日本人が宣誓する場面といったら、やっぱり裁判で発言するときだろう。
法廷で話すことは、真実であってウソであってはいけない。
そういうとき、一般にアメリカ人なら神に「真実を話します」という。
日本人なら何に対して?
ということが、今回の記事になる。

 

 

結論から言うと、首相が就任するときと同じで、「人に誓う」ようだ。
「ようだ」と、あいまいな表現になって申し訳ないです。

でも、下の文を読んでください。

日本の裁判で証言するときは、裁判所によって多少の表現の違いがあるようだけど、基本的にこのように宣誓する。

「証人は,尋問に先立って宣誓をします。宣誓では,良心に従って真実を述べ,何事も隠さず,偽りを述べない旨を誓います。

(「裁判所 Courts in Japan HP」より )」

 

この宣誓の後に、宣誓書に署名と押印することが必要になる。
「宣誓します」とあるけれど、何に対して宣誓するのかは書いていない。
これは、アメリカの裁判での宣誓と比べると、まったく違う。

「Put your hand on a Holy Bible and answer yes to “Do you swear to tell the truth, the whole truth, and nothing but the truth, so help you God?”

「あなたが行う証言が真実であり、すべての真実、そして真実以外の何ものでもないことを厳粛に誓いますか?神に誓いますか?」

アメリカの裁判所では、聖書に手を置いてはっきりとGodに誓っている。
日本の裁判所では、「良心に従って真実を述べ」とあるけれど、神や仏でもなく、自分の良心に従うだけでいいのだろうか?
だったら、簡単にウソを言えるような気がしてしまう。

 

 

「裁判所以外で、日本人が絶対に真実を述べなくてはいけない機会があるのだろう?」

そう考えたとき、頭に浮かんだのが国会の証人喚問(しょうにんかんもん)。

国会の証人喚問の場でも、一切のウソは許されず、真実だけを言わなくてはいけない。
このときも発言する前に宣誓を行う。

議院証言法(第2条・第3条)により、証人は喚問において証言の前に『宣誓書 良心に従って真実を述べ何事も隠さず、また、何事も付け加えないことを誓います(日付・氏名)』と宣誓書を朗読(宣誓)し、宣誓書に署名・捺印しなければならない

(ウィキペディア)

 

ここで出てきているのもさっきの裁判のときと同じで、「良心に従って真実を述べ」という言葉だ
ここでも、それを「何に誓うのか」ということは、はっきり書いていない。
だから、「神や仏でもなくて、『その場にいる人たち』に対して誓っているのだろう」と思ったわけです。

アメリカの宣誓みたいにはっきりと書いていないから、よく分からない。

 

 

ずっと昔は違ったんだけどね。

平安時代や室町時代の日本人が誓うときは、アメリカみたいに神や仏に誓っていた。
承久の乱のときは、北条泰時が日本の神や仏に誓っていたし、室町時代に起きた一揆の誓文にも、日本の神仏に誓っていた。
江戸時代の裁判では、何に誓っていたかは分からない。

日本ではたぶん明治時代のあたりから、現在の裁判での宣誓のようになったと思う。

仏にも神にも誓わず、何に対して誓うか分からないけど、とにかく「良心に誓って真実を述べる」というようになったんじゃないか、と。
この辺は想像です。

 

でも、こうした日本から見ると、アメリカみたいに裁判で証言するときや大統領が就任するときに、聖書に手を置いて神に誓うということに違和感を覚えると思う。
キリスト教の精神がそれほど深く生活に結びついているのか、と。

日本とアメリカでの「誓い方」の違いをみると、やっぱり日本とアメリカでは宗教観が違いますね。
アメリカでは宗教が生活に深く結びついている。

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。