アメリカ人と京都旅行⑪ なんで日本人は自由にお守りを買えるのか?

 

「アメリカ人と京都旅行」で、友人のアメリカ人が感じた一番大きな疑問はこれ。

「なんで日本人は自由に寺や神社に行ったり、好きなお守りを買ったりするのか?」

それは、仏教と神道という宗教の違いを無視している。
キリスト教徒が宗教の違いを超えて、イスラーム礼拝所や仏教のお寺などのなかから、好きなところに行って、そこで祈るのは考えられないと言う。
だから、日本人の自然な行動が不思議に映った。

日本人は曹洞宗や浄土宗といった宗派の違いも無視している。

アメリカ人の彼女からしたら、カトリックやプロテスタントというキリスト教の宗派の違いを無視することは考えられないという。

それでアメリカ人の彼女には、日本人は自由に神や仏を選んでいるように見えた。

 

 

一言でいってしまうと、宗教観の違いですね。

キリスト教徒にとってのGOD(創造主)は、日本人にとっての神様とは違う。
そのことは前の記事で書いた

キリスト教での「Godと人間との関係」は、日本にはない「上下関係」という契約で結ばれている。

宗教評論家のひろさちや氏は、日本人と神との関係について次のように述べている。

日本人にとっての神は「八百万(やおろず)の神」と呼ばれているほど、まことに神々の数が多い。八百万も神々がいれば、とてもとても全部の神と契約を結ぶことができません

「ひろさちやの英語で話す日本の宗教Q&A (Japan Book)」

 

確かに。
日本には、一体どれだけの神様がいるのか分からない。
貧乏神もトイレの神様もいる。
日本にいるすべての神と契約を結ぶことなんて、とてもできない。

これだけでも、日本の神はキリスト教のGodとはまったく違う。
そしてひろさちや氏は、日本人にとっての宗教をこう表している。

特定の神とだけ契約を結んではいけない。日本人の宗教はそういう宗教なんです(同書)

 

「どの神(仏)とも契約を結んでいない」ということは、言い換えれば、どの神や仏に対しても縛られない自由な立場になることができる。

その結果、仏教や神道といった宗教の違いを無視することができる。
さらに、曹洞宗や浄土宗といった宗派の違いも関係ない。
だから自分の気分次第で、自由にお寺や神社に行って神仏に祈ったり、好きなお守りを買ったりできるのだと思う。

「気分次第で」「好きな」という表現は神仏に失礼かもしれないけど、ほとんどの日本人が普通にそうしている。

もし、日本人が特定の神と契約を結んでいたなら、「その神がいる神社でしか祈ることができない」、「そこでしかお守りを買うことができない」ということになっていたと思う。

 

 

 

この「神との契約を結んでいない」という状態は、キリスト教(ユダヤ教やイスラム教)ではありえない。

キリスト教徒にとって、聖書には「旧約聖書」と「新約聖書」がある。
これらは「旧訳」でも「新訳」でもない。
神との「古い契約」と「新しい契約」を意味している。

キリスト教(ユダヤ教やイスラム教も)は、神との契約がなければ成立しない宗教だ。

 

ボクと一緒に京都旅行をしたアメリカ人はキリスト教徒だけど、仏教のお寺でお守りを買っていた。
それは「日本の文化を尊重した」ということで、自分の信仰にはまったく関係がない。
だから、問題はないと言う。

また、彼女はいろいろなお寺や神社で手を合わせていた。
これも「手を合わせる」という行為をしているだけで、祈ったことは一度もないらしい。
もし、GOD以外の何かに祈ってしまうと、彼女にとっては問題になる。

GODと契約を結んだ彼女にしてみたら、日本人が自由にお寺や神社を選んだり、お守りを買ったりすることが不思議になる。

 

 

「行きたい寺社に行って、自分の好きなお守りを買う」

日本人が普通にやっているこの行為には、次のような宗教観が大きな影響を与えていると思う。

・日本では、神はキリスト教のGodよりも人間に近くて親しみのある存在である。

・日本人は、神や仏とは何の契約も結んでいない。そのため、どの神や仏にも同じように接することができ る。

日本人がこうした宗教観を伝統的に持っていたから、現在の日本で、それが常識として定着した。
そして、「日本人は、神を選んでいるの?」という行動につながっているのだと思う。

 

 

日本人は宗教について聞かれると「私は神や仏をあまり信じていません」「私は無宗教です」と答えることが多い。

相手が日本人なら、普通はこれ以上のことは聞かれない。

でもこのアメリカ人みたいに「じゃ、あなたはagnostic(不可知論者)なの?それとも、atheist(無神論者)なの?」と聞く外国人がいるかもしれない。
彼らの中では、この2つは大きく違うから。

くわしいことはこの記事をご覧ください。

アメリカ人と京都旅⑦「日本人と神様」と「キリスト教徒とGod」

 

本人が気づいていないだけで、日本で生まれ育った日本人なら、先ほどのような宗教観を自然と身につけるのだろう。

日本人が当然のこととして持っている常識や文化は、日本人と一緒にいてもなかなか気づかない。
日本人だけといたら、自分の価値観や考え方の「何が日本的なものか」を意識することがほとんどない。

外国人の視点がそれに気づかせてくれる。
日本人の「普通」は、外国人には「なんで?」になる。

今回の「アメリカ人との京都旅行」では、彼女の目をとおして、日本人やアメリカ人(キリスト教徒)の宗教観の違いを知ることができた。

 

 

追記

日本の裁判や国会の証人喚問で証言するときに誓う「良心に従って真実を述べる」という言葉の「良心に従う」という表現が気になった。

この考え方は、人は生まれつき「善の存在」であるという、性善説にのっとっているのではないかと思う。

「人の本姓は善であるとする、孟子の説。悪は外に存在する、後天的・環境的なものであるとした(世界史用語集)」

 

2 件のコメント

  • 神と決して破れない契約を交わす、なのにその神の教えは、カトリック、プロテスタント、イスラム教、ユダヤ教…で様々違って、それぞれが自分達の信仰こそ真であり正義だと主張する。どちらかが折れるということは無いし、それは許されないことなんでしょう。

    だから世界から戦争がなくならないんですね…

    そう考えると、日本人の【八百万の神という考え方=全ての宗教を尊重する心(関心がないとも言いますけど)】
    【特定の神と契約をしない】
    というかん考え方は寄り添ってくれる神がおらず心許ない気持ちもしますが…
    神道でも仏教でも、どこの宗派でも関係なく入り社へ手を合わせ御守りを買う、それはとてもおおらかで、平和的な考え方だと思いました。

  • こんにちは。

    キリスト教の教派を越えた連携の動きであれば、「エキュメニズム」というものがあります。
    興味があったら、ネットで見てみてください。

    「全ての宗教を尊重する心=関心がない」という日本人的な宗教観には良い面と悪い面があるのでしょうが、
    圧倒的に良い面の方が大きいと思います。
    日本では宗教の争いがまったくといってほどありませんから。
    世界に目を向けると、宗教の考え方から起こる争いがたえませんしね。

    コメントありがとうございました。

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    今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。