織田信長の家来となった黒人奴隷(弥助)と本能寺の変


 

始めの一言

*江戸城で将軍(徳川家定)に会った時の感想

「想像されうるような王者らしい豪華さからはまったく遠いものであった。燦然たる宝石も、精巧な黄金の装飾も、柄にダイヤモンドをちりばめた刀もなかった。私の服装の方が彼のものよりも高価だったといっても過言ではない。
(ハリス 幕末)」(逝きし日の面影 平凡社)

日本人は身分が高い人でも、質素であった。

 

このハリスというアメリカ人は、覚えておこう。

ハリス

日本の江戸時代後期に訪日し、日米修好通商条約を締結したことで知られる。

 

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ハリス(ウィキペディア)

 

日米修好通商条約 (にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)というのは、日本の5つの港を開いたというもの。中学校で習ったはず。

【日米修好通商条約】

安政5年(1858)江戸幕府と米国との間で結ばれた通商条約。
日米和親条約で既に開かれていた箱館のほか、神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港(デジタル大辞泉の解説)

 

今回の内容

・世界で一番幸せな黒人奴隷「弥助」
・本能寺の変と弥助

 

・世界で一番幸せな黒人奴隷「弥助」

生まれて初めて黒人を見た織田信長は思った。

「からだが黒いのは、からだに墨(すみ)をぬっているからだろう?」

そう疑った信長は、その黒人のからだを洗わせた。

でも、色が落ちない(あたり前)!
本当に肌の色が黒色だと分かった織田信長は、この黒人に強い興味をもつ。
そして宣教師のヴァリニャーノから譲ってもらった。

信長はその黒人奴隷に「弥助(やすけ)」と名をあたえて、正式な武士にした。

 

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西アフリカ(セネガル)の結婚式での子どもたち

 

弥助

この黒人について、「信長公記」には次のような記述がある。

『信長公記』には「切支丹国より、黒坊主参り候」と記述され、年齢は26歳~27歳ほどで、「十人力の剛力」、「牛のように黒き身体」と描写されている。(ウィキペディア)

 

そして、京都は大騒ぎ。

京都で黒人がいることが評判になり、見物人が殺到して喧嘩、投石が起き、重傷者が出るほどであった。(ウィキペディア)

 

ウィキペディアによれば、信長はこの弥助を「殿様」にしようとしていたらしい。

信長は弥助を気に入って、ゆくゆくは殿(城主)にしようとしていたという(ウィキペディア)

 

今からは考えにくいけど、戦国時代の日本で「黒人の殿様」が誕生しそうだった。
でも、織田信長が本気でそうしようと思ったらそれは実現したはず。

 

 

「戦国時代の日本で、黒人の武士がいたの?本当に?」

黒人のアメリカ人の友人が、それを知って驚いていた。

織田信長が名づけの親なのだから、間違いない。

彼女は、黒人のからだを洗って色を落とそうしたという話に爆笑していた。

「墨を塗っていると思って、からだを洗わせたの?面白いじゃない!」

 

このとき、ふと思った。
これは、人種差別にはならないのだろうか?

「それはならない。それを今のアメリカでやったら大問題になるけど。信長は好奇心でそれをしたんでしょ?だったら、いいわよ。異人種に対する蔑視はなかったんでしょ?」

 

彼女は、韓国で留学していたときに経験したことを話してくれた。

彼女がソウルの地下鉄に乗っていた時、隣にいたおばちゃんに「手を見せてくれ」と言われた。
なんのことかよく分からず、韓国人のおばさんに手を見せる。
手の平と手の甲を見たおばさんが、感心した様子でこう言った。

「あんた、本当に手の平と甲とでは色が違うんだね」

その言葉にびっくりして、そのおばさんの顔をまじまじと見てしまったという。

「でも、これも好奇心でこうしたから私には差別だとは思わない。好奇心ではなくて、黒人への蔑視からこうしたら差別になる。でも、ニューヨークの地下鉄でこれをしたら問題になるわ」

彼女の考えでは、何をしたか言ったかという行為よりも、蔑視や差別意識といった内面的なものが問題になるという。

「織田信長には、人種差別という意識がなかったんでしょうね!」

そんなことを言ってた。

 

「その時代、黒人は動物のように運ばれて売られていたのよ」

確かにそうだ。
アフリカから新大陸(アメリカ大陸)までの航海の途中、黒人奴隷は生きたまま海に投げ込まれて殺されることあった。

また、アメリカ大陸に着いた奴隷は、そのまま売り飛ばされていた。
「マンディンゴ」という映画に、奴隷のオークション(競売)のシーンがある。

その映画の中で、奴隷たちは牛や馬とまったく同様に、歯を調べられ、血統書を付けられ、親子別々に売られてゆく。
(近代世界と奴隷制 人文書院)

 

こういう黒人奴隷の現実を知っていた彼女は、こう言ってため息をついた。

「その黒人奴隷は間違いなく、当時の世界で最高に幸せな奴隷ね」

 

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セネガルの負の世界遺産「ゴレ島」

 

・本能寺の変と弥助

この黒人の弥助は、本能寺の変のときも織田信長のそばにいて、主君の信長のために明智光秀の軍と戦っている。

本能寺の変

1582年、明智光秀が主君織田信長を京都の本能寺に襲って殺した事件。信長の長子信忠も、二条御所で防戦の末に自殺した。

(日本史用語集 山川出版)

 

以下は、この本能寺の変のきの弥助の様子。

天正10年6月2日(1582年6月21日)の本能寺の変の際には弥助も本能寺に宿泊しており、明智光秀の襲撃に遭遇すると、二条新御所に行って異変を知らせ、明智軍と戦った末に投降して捕縛された。
(ウィキペディア)

 

黒人の弥助を捕まえた明智軍の兵士は、弥助をどうしていいか分からない。
そこで、明智光秀にきく。
でも、明智光秀も困っただろう。
結局、逃している。

家臣にどう処分するか聞かれた光秀は「黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず」として処刑せず、「インドのパードレの聖堂に置け」と言ったので、南蛮寺に送られることになって、一命を取り留めた
(ウィキペディア)

 

このあとの弥助については、史料に現れないために全く分かっていないという。

 

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日本に到来したイエズス会宣教師などの南蛮人たち。
白人が連れられる黒人奴隷の召使も描かれている。(ウィキペディア)

 

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投稿者: kokontouzai

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