なんでイギリス人はみかんを「サツマ」と呼ぶの?②薩摩藩と英の「薩英戦争」

 

今回は日本とイギリスの話なんで、初めて日本にやって来たイギリス人といわれる「ウィリアム・アダムス(三浦按針)」を紹介しよう。
徳川家康に仕えて「イギリス出身の武士」となった彼は、日本人についてこんな印象を持ったらしい。

「日本の住民は、性質温良にすて礼儀を重んずることはなはだしく、戦に臨みては勇敢、国法厳にして、犯したる者は毫も仮借するところなし」

 

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三浦按針の像

 

今回の内容

・サラリと前回の内容
・薩英戦争
・戦って芽生(めば)える友情

 

・サラリと前回の内容

はじめに前回の内容をサラリと確認したい。

「もう読んだ」という人は先に進んでくれたし。

「イギリスでは、ミカンのことを『Satsuma(サツマ)』って呼んでいるんだよ」
イギリス人の友人からそんな話を聞いた。
「サツマ」は、江戸時代にあった薩摩藩のこと。

なんでイギリスでは、ミカンをサツマと呼ぶんだろう?
不思議に思って調べてみたら、ロンドンで暮らしている日本人のブログを見つけた。

なんのことはない、日本の温州みかんのことなんですけど、
なんでSATSUMA?と、謎だったんですが、
一年くらい前に職場にあった新聞の特集記事で初めて知りました。

幕末期に薩英同盟が結ばれた折に友好の証として薩摩藩から英国に苗が贈られた事に由来するんだそうです。
反対に英国から薩摩藩に贈られたのがバークシャー種の豚で、
これと在来種を掛け合わせたりして改良されたのが現在の黒豚なんだって~。

「サツマ」というみかん

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イギリスのスーパーで売られている「Satsuma」

 

幕末に薩摩藩とイギリスで友好関係が成立した。
このときに薩摩藩からみかんの苗がイギリスにおくられたことがきっかけとなって、今のイギリスではミカンを「サツマ」と呼ぶようになったとかいてある。

たしかにイギリスと薩摩藩はとても良い関係だった。
でもその友好関係は、薩摩藩の藩士がイギリス人を斬り殺したことから始まっている。

それが、生麦事件のこと。
この生麦事件のことは前回書いた。

今回は生麦事件でイギリスが激怒したことから。

 

明治の日本軍が持っていたイギリスの国旗。
大連(中国)の博物館にあったもの。
イギリスが日本に協力していたということ。

 

・薩英戦争

生麦事件でおそわれた側のイギリスが黙っていられるはずもなく、薩摩藩に対し賠償金とイギリス人を殺傷した藩士の引き渡しを要求する。が、薩摩藩はこれを拒否。
生麦事件の報復として1863年に薩英戦争が始まり、イギリス艦隊が鹿児島沖に襲来し薩摩藩と交戦となる。

で薩摩藩とイギリスとの戦争ではどちらが勝ったか?

相手は1840年のアヘン戦争で清(中国)を撃破している大英帝国なんだから、薩摩藩だけでかなうワケがない。と思いきや、薩摩はかなりがんばった。

薩摩方は鹿児島城下の約1割を焼失したほか砲台や弾薬庫に損害を受けたが、人的損失は最小限にとどまり、陸戦隊の上陸を一歩も許さずに艦隊を横浜に追い返すという予想外の善戦を見せた。

薩英戦争

 

でも、このときイギリスは「本気の戦争」をするつもりはなかった。

「薩摩藩を地上から消してやる!」なんてという強い気持ちがあったわけではない。

イギリス国内にはこの戦争に反対する人たちがたくさんいて、イギリス軍や政治家はこの声を無視できなかった。

イギリス国内においては、英国艦隊の行動を批難した住民の抗議集会などがあり、各地で批難の決議や書簡が政府や報道機関に寄せられています。

交戦時に砲台を壊滅する必要はあっても、市街地を焼き払い、一般市民に多大な被害を与える行為は許せないとの声であり、人道的な立場からの深い同情の念が示されたものでした。

薩英戦争に対するイギリスの反響

 

このときのイギリスは、ベトナム戦争でのアメリカに重なるところがある。

1970年代のベトナム戦争では、アメリカ国内で戦争に反対する多くの市民が抗議活動をしていた。
ベトナム戦争を終わらせたのは、ベトナム人の粘り強い戦いだけではない。
アメリカ国内の反戦の声も、終戦を後押ししていた。

 

でもそれは1970年代のこと。

イギリスでは1860年代に一般民衆が軍部に抗議していたのだから、これは民主政治の成熟さをしめしていると思う。
イギリス革命によって、人類史上初めて立憲君主制を確立した国はチョイと違う。

 

イギリスには「サツマ」というローンの会社?商品名?がある。
ミカンっぽい色をしているのはいいとして、「サツマへようこそ」という言葉を見て借金を想像する日本人はいないはず。

 

・戦って芽生える友情

この薩英戦争の結果は、「両者痛み分け」という感じ。

双方ともかなりの被害を受け、講話が成立。薩摩は攘夷の無謀を理解し、講和後に両者は接近した。

(日本史用語集 山川出版)

 

「講和後に両者は接近した」というのは、お互いに戦って相手の実力や考え方を知ったことで仲良くなったということ。
かつての強敵が信頼できる仲間となったという少年ジャンプ的なことが、このとき薩摩藩とイギリスとの間でおこなわれたのだ。
実際このあとの戊辰戦争では、イギリスは薩摩藩との関係を維持するために、薩摩藩を支援して徳川幕府を敵にまわした。
この背後には、薩英同盟が結ばれたときに友好の証として送られたミカンがある。

それから約140年たった今では、ロンドンのスーパーで「Satsuma(サツマ)」が売られている。

イギリス人にその理由を聞いてもわからなかった。
薩英戦争を知っているイギリス人なんてほとんどいないのだろう。
日英同盟すらイギリスでは知られていない。

日本でもミカンがイギリスで「サツマ」とよばれているなんて、ほとんどの人は知らない。

 

イギリスの事情は英語版ウィキペディアを見た方がいい。
するとそこにはSatsumaの項目があってこんな説明がある。

It is commonly called mikan in Japan, satsuma in the UK
(それは日本ではみかん、イギリスではサツマと呼ばれている。)

It is named after the former Satsuma Province of Japan. In the United Kingdom it is often associated with Christmas.
(それは日本の薩摩藩にちなんで名づけられ、イギリスではよくクリスマスに関連づけられている。)

ちなみに世界で最も権威のあるオックスフォード辞書に「Satsuma」は1880年代に採用された。

 

 

今回の復習

・1863年、生麦事件の報復のため、イギリス艦隊が鹿児島沖に来航して交戦は
なに?
・1840年、清(中国)とイギリスとの間でおきた戦争はなに?
・この戦争でイギリスが獲得した領地はどこ?

 

答え

・薩英戦争
・アヘン戦争
・香港

 

おまけ

日本の温州みかんが英語で「SATSUMA」と呼ばれている理由として、イギリスの新聞記事を紹介した。

「幕末期に薩英同盟が結ばれた折に友好の証として薩摩藩から英国に苗が贈られた事に由来する」というもの。

だけど別の説も見つけたので、あわせて紹介しておきます。

出水郡東町が発祥の地とされる温州みかんは、外国ではSatsuma(サツマ)と呼ばれています。 初めて温州みかんが外国に渡ったのは、1876年(明治9年)ジョージ・ホール氏がフロリダへ苗木を送っています。

温州みかんがSatsumaと呼ばれるようになったのは、1878年当時米国の日本大使だったバン・バルケンベルグ氏夫人が鹿児島の方に頼んで温州みかんの苗木を故郷に送ったことに由来します。

現在、フロリダ州とアラパマ州にSatsumaという町があります。 ヨーロッパでも温州みかんのことをサツママンダリンと呼んでいます。

Satsumaの由来

どっちが正しいのだろう?

 

 

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