面白いブログ記事の書き方と残念な記事について


 

一言
「私達が今までの接触に依って識ることのできた限りに於いては、此の国民は、私が遭遇した国民の中では、一番傑出している。(フランシスコ・ザビエル 戦国時代)」

 

今回から、また旅行ブログに戻ります。
「自宅をでて、バスに乗ってセントレア空港に着きました」というところに。

ですが、またブログ記事が100を越えたところで書きたいことがあったので、それを書いてから進みます。

 

 すごいかどうか?
めでたいかどうか?
は、別として、このブログの記事も100を越えた。

ブログを書く人なら、誰でもそうだろうけど、「ブログを書いて記事を読んでもらうのなら、良い記事を書きたい」と思って書いてきた。
「どうやったらそんな記事が書けるのか?」を考えたり、「読ませる記事の書き方」というのをネットで調べたりしてきて、「こんな記事が書けたらいいなあ」という記事が、自分なりに見えてきた。

 

「読ませる文」「魅力的な記事」の書き方について思ったことを、自分のためにまとめてみたい。
それと、このことが、誰かの何かのお役に立てるかもしれない、と期待もしながら。

分からないなりに、ネットで調べると「読ませるブログ記事」の書き方で参考になることはる。やっぱり魅力的な記事には共通点があるのだなと思う。
「自分がそれを書けるか?」ということは手の届かない高い棚に置いておいて、読ませる記事(文)のワケについて思ったことを書いてみたい。

 

読ませる記事には、二つの「おもしろい」がある。
一つ目は、「Fun」。
そのものズバリで、読んでいて面白い記事。楽しくなる文章。
話の展開だったり、文章が軽快だったり、アイデアが豊かだったり。
読んでいて、単純に「楽しい」というだけではなくて、喜怒哀楽の感情を引き起こすような記事は、やっぱり引き込まれる。

読んでいる人から、共感や感動を引き出すような記事がいいんだろうなあ。
これは、きっと、会話でも同じことだと思う。
「話し上手は聞き上手」っていうけど、相手からいろんな感情や気持ちを引き出せるような話ができる人は人気がある。
「聞き上手」っていうのは、相手から言葉じゃなくて、聞いてほしい気持ちとか伝えたいことを引き出すことがうまいことだと思う。

ただ「ウンウン」聞くだけなら、誰でもできる。
相手の話に相づちを打ったり質問したりして、相手の「うれしい」「楽しい」という気持ちを、その人自身に言葉にさせて引き出せる人が、聞き上手ではないかと思う。
読んでいて楽しい文は、「そうそう」と思わせるような、読み手の気持ちや感情を引き出すのがうまい。

 

引き出す感情は、「喜怒哀楽」ではなくてもいい。
一歩間違うと危険だけど、「怒り」を引き出すのもいいかもしれない。
でも、相手から優越感や正義感を引き出すことも有効なんだろうね。
これはボクの勝手な考えじゃないですよ。
テレビ番組や週刊誌の記事をつくるときの「コツ」だそうです。

あんまり良いことじゃないだろうけど、テレビのワイドショーや週刊誌の記事って、そういうものが多い。
年収ウン十億円の成功者が、あるとき事業に失敗して借金苦の生活におちいる。そういう転落・没落もの。
その番組を見たり記事を読んだりしている人に、羨望・反発・同情・優越感を感じさせるものがよくある。そうした感情を、意図的に引き出すようなつくりにもなっている。

個人のブログ記事でそうしようとすると、難しいし危ないかもしれないけれど、考え方としは、知っておいてもいいと思う。

それと、正義感を引き出すもの。
水戸黄門が長い間人気だったのも、「正義が悪を裁く」っていう「勧善懲悪」のテーマを日本人が好きだったからだと思う。
実際、見ていて、スカッとする。

 

もう一つの「おもしろい」は、「interesting」。
「興味深い」という意味の「おもしろい」で、読んでいて、タメになるような記事。
その記事や文章を読むことで、何かの気づきがあったり、新しい知識を得たりすることができるようなもの。
これなら、読み手から喜怒哀楽の感情を引き起こさなくても、文章が面白くなくても、多少は、我慢して読んでくれる。

Interesting」を名詞にした「Interest」には、「利子」「利益」という意味がある。
ある記事を読んで、新しい気づきや知識をもらえば、それだけ十分、利益になる。

 

逆に、この二つの要素がないものが、残念な記事になる。
読んでいて、「fun」もなければ、「interesting」もない。
楽しい気持ちになることも、何かを得られることもないもの。

この二つの「おもしろい」がなくても、人に読ませるような記事や文があったら、それはそれで、とんでもない記事なのかもしれない。

 

ブログの記事が100を越えた今になって、前に自分が書いてきた記事を読み返すと、「つまらない文」、「こりゃ、ダメだ」というものがある。
自分なりに、一生懸命に書いているんだけど、残念な記事がある。

 

今度は、そういう「残念な記事」の中身について書きたい。
「読んでいてつまらない記事」には、いろいろな種類があるけれど、間違いなく面白くないのは、事実をただ書いているだけのもの。
その日の行動をただ書いただけの文章。

例えば、旅行ブログで、こんな記事があったとする。

 「朝8時に起きた。パンを食べた。お寺に行った。レストランで昼食を食べた。8時に宿に戻って来た。12時に寝た。」

 僕だったら、え?これで終わり?とびっくりする。
何のメッセージもなければ、文に面白みもない。
ただの事実の羅列。
こんなのが、面白いはずがない。
自分の記事の中で、「つまらんなあ」というものは、こういうものが多かった。

 

ボクは歴史が好きで、司馬遼太郎の歴史小説なら時間を忘れて読む自信はある。
けど、歴史の年表を上から読んでいくなんて、ただの拷問。
事実の羅列って、そんな感じのもの。

 自分がファンになっている芸能人なら、これだけでも面白い。
好きな人のことなら、一挙手一投足、すべてを知りたくなる。

  

自分を読み返して、「起きたことをただ書く」という記事がつまらないことは分かった。
けれど、「なんで、自分はそういう記事を書いたのか?」と考えた場合、思い浮かんだのは、「手段が目的化したからだ」というもの。

「手段が目的化」したときの記事は、面白みに欠ける。
いろんな旅行ブログを読んでいても、「これは手段が目的化したんじゃないのか?」という記事を見かける。
その記事を書いている人が苦しそうな記事。

  

「『手段が目的化する』という言葉を、初めて聞いたぞ」という人は、知っておいて損はない考えです。
このことについて、次回、書いていきます。