7月23日、韓国で起きた2つの歴史的事件
7月23日は、19世紀末の韓国(朝鮮)の歴史を見ると、2つの重大な事件が起きた日だ。
当時、朝鮮の政界では国王・高宗の父親である大院君と、高宗の妃である閔妃(びんひ)が激しく対立していた。
名目的には王である高宗が朝鮮のトップにいたが、実際には父や妻のほうが強い力をもっていて、互いに相手を蹴落とし、自分が「朝鮮の支配者」になろうとしていたのだ。
そんななか、1882年7月23日に事件が起こる。
首都・漢城(現在のソウル)で、大院君の煽動を受けた兵士が反乱を起こし、政権を握っていた閔妃の一族や日本公使館員らを殺害した。
これを「壬午事変(じんごじへん)」という。
そしてもう1つは、1894年のこの日、日本軍が朝鮮王宮に突入した事件だ。
この2つの出来事に共通しているのは、日本と中国(清)という大国に対する、朝鮮の混乱した外交姿勢だ。
あえて言わせてもらうなら、それは事大主義だ。
教科書から消えた「事大主義」
事大主義とは、辞書的な意味では「自分の信念をもたず、支配的な勢力や風潮に迎合して自己保身を図ろうとする態度・考え方」を指す(デジタル大辞泉)。
自分が弱者であることを自覚し、強い者に媚びへつらうことで保護を受けて、自身の安全を確保する生存戦略と言っていい。
『ドラえもん』で例えるなら、ジャイアンを「ボス」と認め、その力を利用して利益を得ようとするスネ夫は、まさに事大主義的なキャラクターだ。
昭和の時代、ボクが学んだ歴史教科書には、大国である中国に依存する朝鮮の外交姿勢が「事大主義」と書かれていたと記憶している。
しかし今では、教科書からその言葉が消えたという。
日本の教科書検定には「近隣諸国条項」があり、周辺国に歴史的な配慮をした記述をするように定められている。
実質的には韓国と中国のことだが、この2国が日本に配慮して歴史教科書を作成しているという話は聞いたことがない。
「事大主義」という表現は韓国にとって侮辱的だということが、削除理由の一つにあったらしい。
たしかに、朝鮮が自分の信念をもたず、強大な中国に迎合して自己保身を図ろうとしていたと指摘されることは、韓国には不愉快だろう。
しかし、19世紀末期の朝鮮王朝にかぎっては、そう言っても間違いではない。
独立のためか、自己保身か
韓国における歴史の評価では、先ほどの高宗や閔妃が事大先(依存する大国)を次々に変えたのは「朝鮮の独立を守るためであった」と好意的に評価されているという。
しかし、韓国の近代史に対する認識では、基本的に「日本=加害国、韓国=被害国」という設定になっているため、日本には厳しく、自国には甘くなりがちだ。
それに、当時の彼らの言動を見ると、国家の主権を死守していたとは思えない。
これからそれを説明していこう。
1882年の壬午事変では、閔妃側にいた人や日本人が朝鮮の兵士に襲撃され、命を奪われている。
このことからも分かるように、閔妃は日本寄りの立場にいたのだ。そして、日本の支援を受けて開化政策を進め、朝鮮の近代化を目指していた。
しかし、壬午事変によって閔妃派は打撃を受けて勢力を失い、大院君が9年ぶりに政権を取り戻した。
日本と清はこの事変について話し合い、開国政策に反対する大院君を「障害」と見なし、政権から排除することで意見が一致したとされる。
中国の動きは早く、すぐに大院君を拘束して中国へ連行した。
朝鮮の政界から大院君は姿を消し、閔妃政権が復活する。
中国の力を見せつけられた閔妃は日本から離れて清へ寝返り、清への依存度を強める事大主義的な姿勢を見せるようになる。
繰り返される政変と大国への依存
その2年後の1884年には、「甲申政変」というクーデターが発生。これは、金玉均ら日本の支援を受けた「独立党」が、閔妃を筆頭とする清寄りの「事大党」を一掃しようとした事件だ。
しかし、これは失敗に終わり、金玉均は閔妃派の人間に暗殺された。
現在の日本の歴史教科書では、ここでも「事大」という言葉を避けるため、事大党を「親清派」と言い換える動きが進んでいるらしい。
その後、日本と清は朝鮮をめぐって激しく対立し、「甲申政変」の10年後、1894年に日本軍が朝鮮王宮に突入して占拠し、高宗を捕らえた。
当時の日本から見ると、朝鮮は清の「言いなり」になっていたため、日本寄りになっていた大院君を復権させ、朝鮮を思いどおりに動かそうとしたのだ。
日本は朝鮮政府に対して「清国との絶縁」を要求したが、清の報復を恐れて朝鮮は拒否し続け、日本を落胆させた。
最終的に朝鮮政府は日本の強い態度に押され、消極的ながらその要請に応じた。
これによって日本は「朝鮮政府の求めに応じ、清軍を朝鮮から追い出す」という大義名分を手に入れて、清との決戦の準備を進めた。
その後すぐに、日清両国が宣戦布告をして戦争がはじまった。
この日清戦争で日本が勝利し、清に朝鮮の独立を認めさせた。
すると、閔妃は清国に代わって、今度はロシアに近づき延命をはかろうとした。
日本はこの動きに危機感をおぼえ、大院君と組んで1895年に「乙未事変」(いつびじへん)を起こし、閔妃は日本人か朝鮮人の手によって殺害された。
その後すぐに、日清両国が宣戦布告をして戦争がはじまった。
この日清戦争で日本が勝利し、清に朝鮮の独立を認めさせた。
露館播遷
高宗は日本も父(大院君)も信じられなくなり、ロシアを頼ることにした。そして1896年に、国王がロシア公館に亡命する前代未聞の事態が起こる。
これを「露館播遷(ろかんはせん)」という。
しかし、1904年に日露戦争が起こると、また態度を変えた。
高宗の側近が日本の実力者を訪ね、「自分は決して親露の人間ではなく、日本のために力を尽くしたい」と申し出たのだ。
そして、韓国の利権の大部分を日本に与えようと提案し、その売国ぶりに日本人が言葉を失った。

事大主義|19世紀末、朝鮮の大混乱
19世紀末、閔妃、大院君、高宗らが本当に「朝鮮の独立」を守ろうとしたとは、とても考えられない。
彼らは大国を後ろ盾にして敵対勢力を排除し、自分たちの地位や財産、利益を確保するために争っていたというのが実態だろう。
この3人が本当に自分の利益より、朝鮮の主権を上位に置いていたら、まとまって力を合わせてそのために行動できたはずだ。
しかし、現実は逆で、特定の一族や集団が政権を独占した「勢道政治」(せいどうせいじ)が行なわれていた。
朝鮮王朝全体ではなく、この時代にかぎって言えば、朝鮮の外交姿勢はやはり「事大主義」と呼ぶのがふさわしい。

コメント
コメント一覧 (2件)
朝鮮は建国の理由からすでに「事大主義」が生まれています。
明を建国した朱元璋が高麗に対して遼東の土地を譲るよう要求し、これに対して高麗では高句麗時代から高麗の土地であった遼東地方を絶対に放棄できないという強硬派と、新たに台頭した強国明と戦っても勝てないので返そうという和解派が対立しました。強硬派の首領は崔瑩将軍で、和解派の首領は李成桂でした。しかし当時の高麗の実権者は崔瑩であったため、李成桂は嫌でしたが、遼東を征伐するために出陣しました。李成桂は最後まで遼東征伐に反対し、これを「4不可論」と呼び、その内容は次の通りです。
1.以小逆大 – 小さな国である高麗が大きな国である明を逆らうのは理にかなっていない。
2.夏月動軍 – 農繁期の夏に軍を動員すると、民は農業を行うことができない。
3.擧國遠征 – 全国の軍が北へ遠征に出ると、南の倭寇がその隙をついて侵入できる。
4.雨期無弓 – 梅雨の時期には弓の接着剤が緩み、武器が使えず、兵士同士で感染症が発生しやすくなる。
結局、李成桂は出陣していた軍を鴨綠江の威化島で回し、王宮に戻って高麗王を廃位させ、崔瑩を殺して反乱を起こしました。これを韓国の歴史では「威化島回軍」と呼びます。
李成桂はその後、高麗王朝を滅ぼし、朝鮮を建国しました。建国の理由はまさに「小さな国が大きな国に逆らうことはできない」ということであり、それ自体がすでに「事大主義」の完成でした。
>これを韓国の歴史では「威化島回軍」と呼びます。
これは初耳です。貴重な話をありがとうございました。
ご指摘のとおり、朝鮮の外交姿勢は「事大主義」だったと思います。
ただ、日本の歴史教育ではその用語を使うと、「強者にこびへつらうのが朝鮮人の国民性」という偏見を助長させる可能性があるため、今ではあまり使われなくなったと思います。