アメリカ人と京都旅⑦「日本人と神様」と「キリスト教徒とGod」


 

「あなたの宗教は、何ですか?」 日本人からは聞かれないし、こっちも聞きかないけど、外国人からは、こう聞かれることがある。
そうしたら、大体、こんなふうに答えている。
「宗教を信じていません。仏教徒ですけど、神社にも行きます。」

 

これですんでくれたら楽なんだけど、さらにつっこむ外国人もいる。
前に、アメリカ人からこう聞かれた。
「あなたは、agnosticなの?それとも、atheistなの?」
「はあ?」だ。
何のことだか分からない。
辞書を引くと、「agnostic(不可知論者)」と「atheist(無神論者)」とある。

 

逆にアメリカ人に聞くと、「無宗教」はさらに「神の存在は信じるけれど、宗教は信じていない」ということか「宗教も神の存在も信じていない」という二つに分かれるらしい。

 

それでも、「はあ?」だ。
アメリカ人に説明してもらうと、それぞれこんな感じらしい。

I am agnostic. I believe in god or many gods.
私は、不可知論者です。神や神々を信じています。

I am atheist. She believes that gods and heaven don’t exist.
私は、無神論者です。神も天国の存在も信じていません。

 

外国人と付き合う機会があって「自分は、無宗教です」と言う人は、自分は「agnostic」なのか「atheist」なのかまで考えておいた方がいいと思う。
同じ「無宗教です」でも、外国では、この二つは大きく違う。

 

でも、自分の宗教を聞かれるくらいなら、まだ答えやすい。
プロテスタントのアメリカ人やイスラム教徒のインドネシア人、ヒンドゥー教徒のインド人から、こんなことを聞かれたことがある。
「あなたにとって、神とはどのような関係にありますか?」
「日本人と神との関係はどんなものですか?」
前者なら適当に答えられる。
後者は難しい。

で、考えてみた。
「日本人にとって神はどのような存在か」は、前回までに書いてきたから、この記事では、日本人と神との関係について書いていきたい。

 

もともとは、アメリカ人のこの疑問から始まったんだよね。
「日本人が、行きたい寺や神社に行って、好きなお守りを買うのは不思議」
というやつ。
話が脱線して、どんどんそれていってます。分かってます。
でも、「日本人と神の関係」は、知っておいて損はないし、得しかないです。
我慢して読んでください。

まずキリスト教では、人と神はどのような関係にあるのか?
これって、キリスト教徒だけじゃなくて、同じく一神教のユダヤ教徒やイスラム教徒にとっての「人間と神の関係」とも同じになる。

「ひろさちやの英語で話す日本の宗教Q&A Japan Book」では、キリスト教での神と人の人間の関係をこのようにある。

 

 「『わたしはあなただけを唯一絶対の神と信じ、他の神は認めません』といって、その唯一絶対の神と契約を結びます
(同書)」

 

人間と神とは、「契約で結ばれた関係である」と言い切っている。    でも、「契約」って何?
キリスト教における「契約」どんなものなの?
ボクには、よく分からん。
でも、分からなくて、当然みたい。

そもそも、キリスト教における「契約」という考え方は、日本人には理解することが難しいらしい。
この神と人との「上下契約」という考えが、日本にはないという。

 「日本人にないのはおそらく「上下契約」だけである
(聖書の常識 聖書の真実 山本七平)」

 

山本七平氏は、この本で、この神と人間の上下関係を次のように、説明している。

 

「たとえば日本にも『忠臣』がおり、『忠臣蔵』もある。しかし当時の家臣は殿様との間に契約を結んでいたわけではなかった。また、この契約を完全に履行するのが『忠』だという発想があったわけでもない」

「もちろん第二次世界大戦中にも、天皇との間の契約を結んでも死んでも絶対に守るといった発想はなかった。絶対者なる神との契約を絶対に守ることが『信仰』すなわち『神への忠誠』なのである。したがってその意味は、日本人のいう『信仰』』『信心』といった言葉と非常に違う。聖書の宗教が『契約宗教』と呼ばれるのは、『神との上下契約』という考え方がもととなっている」

 

太平洋戦争中の日本人には、天皇を神にも等しい存在だと考える人もいた。
それでも、キリスト教徒にとっての神のような「絶対的な存在」ではなかったという。

だから、「天皇との間の契約を結んでも死んでも絶対に守るといった発想」がなくて、キリスト教でいう信仰や神への忠誠という考えももたなかったらしい。

それだと、そういう考えがなかった日本では、この「神との契約を結んだからには、死んでも守る」という聖書の考え方が分かりづらい。

 

ということで、具体例をあげる。

旧約聖書に出てくるユダヤ人の姿に、この考えを見ることができる。
ユダヤ教やキリスト教には、「安息日」という日がある。

「ユダヤ教・キリスト教で、仕事を休み、礼拝を行う聖なる日(大辞泉)」

 

今の日本で、学校や仕事が日曜日に休みなのも、ユダヤ教やキリスト教のこの安息日の習慣にもとづいている。
基本的な考えとして、キリスト教徒やユダヤ教徒は、この日に仕事をするのはダメで、必ず休まなくてはならない。

キリストが生きていた2000年前は、これが厳しく守られていた。
この時代の安息日がどのようなものであったか?
「新約聖書入門 三浦綾子」から見てみよう。

 

 「当時安息日に禁じられていたことの、一部をここに紹介してみよう。いかなることがあろうと、次の事項は、絶対禁止されていたのである。
・種まき ・刈り入れ ・売買 ・点火 ・夫婦生活
・食事の用意 ・九百メートル以上の歩行」

 

といった具合。
「火を点けることも食事を作ることも禁止されている」って、じゃ、逆に何ができるの?
という気がしてくる。
でも、神との契約を結んだ以上、信者はこれを必ず守らないといけない。

 

もし、この労働を禁止された安息日に、敵に襲われたらどうなるか?
シリア人に襲われたユダヤ人は、このようにした。

  「安息日を文字どおり死守した極端な例として、これも『旧約聖書入門』で書いたことだが、『一群のユダヤ人が、安息日に攻撃を加えてきたシリア人に対して、安息日を犯すよりも、甘んじて死を選らんだことはあまりに有名である』
(新約聖書入門 三浦綾子」」

 

敵と戦うことも、「仕事」とみなされたのだから、ユダヤ人はこの場合、神との契約を破って戦うか、戦わずに死を選ぶかの二つに一つを選ぶしかなかった。
そして、ユダヤ人は、信仰を守って戦わずに、シリア人に殺されることを選んだ。
これは、旧約聖書に出てくるユダヤ教徒の話だけど、キリスト教徒にとっても神との関係は、このユダヤ教徒と神との関係と同じ。

信者は、神との契約を絶対に守らないといけない。

 IMG_1932

「修学院離宮」
 このアメリカ人との京都旅行で行ったところ。

 

「だって、これってどう思う?」
アメリカ人とイギリス人の友だちに聞いてみた。
このユダヤ人の行動を、今のアメリカ人やイギリス人がどう思うのかなあ?
と思って。

ちなみに、独りはagnosticなアメリカ人でもう一人はatheistなイギリス人。
考え方は違う二人だけど、答えは同じ。
「自分だったら、契約を破って絶対に戦う。でも、ユダヤ人が契約を守って死んだという行動は、十分理解できる」
というもの。

二人とも、無宗教だったから、当たり前かもしれない。
人選を誤ったか?

神との契約を守らなかったら、永遠の地獄に落ちるし、契約を守って死んだら、天国に行くことができる。
「神との契約を守るために、殺されることを選んだ」ということは、考え方は分かるし、その当時の人たちならやっても不思議なことじゃないし、驚くことでもない。
らしい。

「じゃ、今のアメリカ(イギリス)で、『死んでも契約を守る人』っているの?」
と尋ねてみる。
「分からないけど、中には、いるかもしれない」
と、全否定はしなかった。

このときは話題には、出てこなかったけど、アーミッシュの人たちならそれをするかもしれない。
「アーミッシュ」ってどんな人たち?と思った方は、こちらをどうぞ。
*「アーミッシュ」という、とてもアメリカンな存在」

彼女たちからは、そんなユダヤ人よりも、「日本人が行きたいお寺や神社に行って、欲しいお守りを買う」という考え方の方が、不思議だと言う。
そんなに変か?

 

で、まとめに入る。
結局、日本では、「神との上下契約」という考えがないから、人間と神との関係は、キリスト教徒のように、契約で結ばれた関係ではない。
だから、何の神や仏とも契約を結んでいない「自由な関係」になる。

と、言い切ってしまうと問題があるかもしない。
でも、現実には、「私は、この神(仏)と契約を結んでいる」と考えている日本人は、ほとんどいないでしょ。

そういう考えをしていると、「契約を死んでも守る」という発想に強い抵抗を感じると思う。
さっきのユダヤ人の話は、読んでて引かなかった?
まあ、日本でも、1970年代には、敵から攻め込まれても、日本は戦わないという「非武装中立」っていう考えがあったけどね。
「離婚ができない」

さっき、こんな文があった。
「絶対者なる神との契約を絶対に守ることが『信仰』すなわち『神への忠誠』なのである」
「絶対に守る」ということは、「神との契約は絶対に破ることができない」ことと同じになる。

そうなると、キリスト教徒の生活では、普通の日本人にはないような「困ったこと」が起こる。
例えば、離婚。

結婚式で、神に「死ぬまでこの人を愛します」と結婚という契約を結んだ以上、何があってもその言葉を守らないといけない。
つまり、基本的な考え方としては、神に誓った以上、離婚することができなくなる。

実際、イタリアやフィリピンのキリスト教徒(カトリック)は、離婚をすることができない。
このことを中心に、「神と契約で結ばれた関係」という考えが、キリスト教徒の日常生活にどんな影響を与えているのかを、次回に書きたい。