【ワルシャワ蜂起】第二次世界大戦で、最も絶望的で凄惨な戦い

 

8月1日は「第二次世界大戦で最も凄惨な戦い」と言われる、1944年のワルシャワ蜂起が始まった日。
ナチス=ドイツに占領されていたポーランドの首都ワルシャワで、兵士や市民が武器を持って立ち上がった結果、ひどい裏切りにあってこれ以上なく悲劇的な結果で終わった。

この前年、1943年にユダヤ人が起こしたドイツに対する武装蜂起の「ワルシャワ・ゲットー蜂起」とゴッチャになりやすいけど、これとはまったくの別件なので注意されたし。

【ワルシャワ・ゲットー蜂起】国なき民・ユダヤ人の悲劇と栄光

 

ワルシャワ蜂起のようす
世界史に残る悲惨な出来事だったから、子どもには見せられないようなシーンもある。

 

 

1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻して第二次世界大戦がハジマッタ。
ポーランド側は大きな犠牲を出しながら、必死の抵抗を試みたけれど、強大なドイツ軍を撃退することはできず占領されてしまう。
この期間は屈辱と恐怖しかない。
ドイツに抵抗すれば即処刑。
ポーランド人がユダヤ人をかくまったり、ドイツの許可なく家畜を飼うことも罪とみなされて、そうなったらほとんどの場合、見つかり次第その場で銃殺された。
ナチスの占領期間中、ユダヤ人を含めて600万人のポーランド人が殺害されたと考えられている。

 

ワルシャワ蜂起でドイツ軍と戦うポーランドの兵士

 

でも、反撃のトキはきた。
1944年6月、ソ連軍が西からドイツ軍に攻め込むと状況は一気に変わる。
このソ連の戦いが、あまりに激しい戦闘で想像を絶する戦死者を出して、ギネスブックにも記載された「バグラチオン作戦」だ。
ソ連軍は敵軍を撃破しながら進軍し、ドイツ軍は敗走を重ねて東へ逃げていく。
ワルシャワから10kmほどの地点にまで近づいた時、ソ連軍は反ドイツのレジスタンスに武器を持って立ち上がるよう呼びかけた。
外からソ連軍、内側からは自分たちが戦えば、必ずポーランドからドイツ駆逐することができる。今こそ最高の好機!とワルシャワにいたポーランド国内軍や市民はそれに呼応し武装蜂起を決断する。

8月1日、兵士らはドイツ軍の兵舎や補給所を襲撃し、戦いながらソ連軍の進軍を待つ。
しかし、こない。
貧弱な武装の国内軍では、圧倒的な火器を持つドイツの治安部隊に勝つことは不可能。
反撃に出たドイツ軍に押されて、「ま、まさか我々を裏切ったのか?」とポーランド人が死を覚悟したところで、やっとソ連軍がワルシャワに入ってくる。そしてドイツ軍を挟み撃ちにし、降伏に追い込むことに成功した。
…そうなるはずだった。
なのに結局、決起を呼びかけたソ連軍は最後まで現れなかった。
武装蜂起は完全に失敗してワルシャワの街は徹底的に破壊され、ポーランド国内軍や民衆は一方的に虐殺されていく。

市民の死亡者数は18万人から25万人の間であると推定され、鎮圧後約70万人の住民は町から追放された。(中略)国内軍は1万6000人、ドイツ軍は2000名の戦死者を出した。

ワルシャワ蜂起

 

すべてが終わった後、1945年1月にやっとソ連軍は進撃して簡単にワルシャワを占領する。
なんでソ連軍は姿を見せず、ポーランド人を“見殺し”にしたのか?
その理由には、バグラチオン作戦で大きな人的・物的な被害を出していたソ連軍には、もうワルシャワに進撃する余力がなかったという指摘がある。
また、自分たちの意のままに動く傀儡政権を樹立しようとしていたソ連にとって、ポーランドの亡命政府はジャマな存在だったから、ワルシャにあったその指導部を壊滅しようとしたという説もあり。
どんな理由であれ地獄の占領期間中に、ポーランド人がソ連から希望を与えられて、その後に呪いながら死んでいったことには変わらない。

 

 

ワルシャ在住のポーランド人の話では、この「ワルシャ蜂起」は日本でいうと広島・長崎への原爆投下と同じような戦争の悲劇と考えられている。
8月6、9日と同じように、ポーランドでも毎年8月1日に記念式典が開催される。
この日は国のために命をかけて戦ったヒーローを思い出す、ポーランド人にとってすごく大事な日になっているという。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。