日本はいつできた? 「白村江の衝撃」からの国内大改革

 

日本はいつできたのか?
この答えは超簡単で、初代天皇の神武天皇が即位した紀元前660年2月11日だ。
神話ならこれで終了なんだが、歴史だとそうもいかない。
日本が成立した重要なきっかけは、神武天皇の即位をひっくり返した663年のきょう10月4日におこなわれた「白村江(はくすきのえ)の戦い」にある。

その少し前、朝鮮半島には高句麗・百済(くだら)・新羅の三国があって、天下統一をめぐって争っていた。
この中で百済は倭(日本)へ仏像をプレゼントするなどして、両国は友好的な関係にあった。
ちなみに知人の韓国人が「百済にないものは価値がない。だから“くだらない”という日本語ができました」という都市伝説というか、デタラメをガチで信じていて、どうツッコんでいいのか迷ったことがある。
そんな百済は660年に、中国の唐・新羅の連合軍の攻撃を受けて滅亡する。

でも、その戦火を生き延びた百済人もいた。
その中の1人、鬼室 福信(きしつ ふくしん)は祖国を復興させるため、倭に軍事支援を求める。
*鬼室 福信は漢字二字姓だけど朝鮮半島の人間。

「義を見てせざるは勇無きなり」と思っのたか日本は百済の難民を受け入れて、唐・新羅との対立姿勢を深めていく。
そして663年、朝鮮半島の中部にある白村江で、百済遺民が合流した日本軍と唐・新羅の連合軍が激突する。
この白村江の戦いで、日本はトラウマレベルの大敗をした。

勝利した唐はこの後、高句麗を滅ぼして大帝国を築き、新羅は百済や高句麗の領土を吸収して朝鮮半島を統一する。

負けた日本はどうなった?
唐・新羅が侵攻してくることを想定し、百済人の協力を得て九州の北部に水城(みずき)を築いたり、防人(さきもり)を配備したりして防御力のアップに専念する。
このとき天智天皇が「痛いのは嫌なので防御力に極振りしたいと思います。」とつぶやいたと日本書紀にある。いやしらんけど。
667年に都を難波(大阪)から、大津宮(滋賀)へ移したのも、西から唐・新羅の連合軍が攻めてくることを考えてのことだろう。

 

結果的には、日本が攻撃を受けることはなかった。
敗戦してすぐの665年に日本が遣唐使を送ったのは、関係を修復して戦争を避けるねらいがあったと思われる。
外国との戦いで、手痛い経験をした日本は内なる充実を図る。
遣唐使を派遣して大国・唐の先進的な政治制度などを学び、国力を増大しようと改革に取り組んだ。
それまで「倭」だった国名を「日本」へ変更したのもこのころだ。
「倭」には「小さな国」といったネガティブな意味があったから、日本人はこれを変えたかったらしい。
なんで「日本」になったのか?
少し前に聖徳太子が隋の皇帝に渡した手紙の中で、日本を「日いづるところ」と表現していて、これが「日いずるところ→ひのもと→日本」と変化していったという説がある。
701年に大宝律令が制定されて、中央政府が地方を統治する国家の骨組みが完成した。

 

ということで本日のまとめ

「ならば力を貸そう」と百済を支援するために唐や新羅と戦ったら、倭は敗北して大きな衝撃を受けた。
それで国名を含めて、さまざまな改革を急ピッチに進めていって「日本の原型」ができたのだ。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。