歴史に残る「自己犠牲の精神」:カレーの市民とコルベ神父

 

日本では室町時代だったころ、ヨーロッパではイギリスとフランスによる終わりの見えないバトル、百年戦争(1339~1453)があった。
はじめはイギリス優勢で進んでいったけれど、ジャンヌ・ダルクとかいう反則級のミラクルガールが現れりして、最終的にはフランスが勝利する。
この戦争で両国では貴族が弱体化し、中央集権化が進んでいき王の力が強くなっていく。

ノルマン征服→百年戦争で、今のフランスとイギリスが生まれた

この百年戦争のなかでイギリス軍がフランスでの拠点を築くため、イギリスに面した港湾都市カレーを占領しようとすると、カレーの軍人や市民が徹底抗戦をして「カレー包囲戦」が始まった。
二重の城壁と濠(ほり)のあるカレーの守りは鉄壁。
この都市を拠点として使うつもりだったイギリスとしては、なるべく破壊しないで、できれば無傷でカレーを奪いたかった。
となると都市を包囲して、外からの食糧供給の手段を断ち、飢えによって開城させることは最適解だ。
それでイギリスが1346年から約1年にわたって包囲戦を展開すると、カレーへの食べ物や飲み物の供給はほぼストップし、カレーにいた人びとは飢餓地獄におちいる。
そしてついに1347年のきょう8月4日、イギリスに降伏した。

ただし、これには条件があった。
イングランド国王エドワード3世は、市の有力者6人が代表として出頭すれば、残りのカレーの人々は救うと言う。
それはつまり、6人を処刑することで「カレー包囲戦」の責任を取らせるということ。
「だが断る!」なんて言えるわけがなく、カレーの全市民を助けるために6人が志願して、裸に近い姿で出てきてイギリス軍に拘束される。
でも結局はエドワード王妃が夫を説得し処刑を中止させて、6人の命は救われた。

この話に基づいて、6人の勇気や自己犠牲、死を覚悟した恐怖をフランスの芸術家ロダンが彫刻で表現し、『カレーの市民』という歴史的作品が生まれた。

 

カレーの市民

 

『カレーの市民』と同じように自分を犠牲にして、他人を救ったポーランド人がいる。
彼はカトリックの神父で、名をマキシミリアノ・コルベ(1894年 – 1941年)という。

 

コルベ神父(1894年 – 1941年)

 

第二次世界大戦中、ナチスによってホロコースト(ユダヤ人虐殺)が行なわれていたとき、強制収容所から脱走者が出た。
これに怒った看守は報復と見せしめとして、10人のユダヤ人を餓死させることにする。
その一人に選ばれた不幸な囚人が妻や子どもを思って泣き出すと、それを見たコルベ神父が進み出て、「私が彼の身代わりになります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と看守に言う。
これで男性は救われ、コルベと9人の囚人が餓死室に閉じ込められた。

こうなると普通は飢えと渇きによって、囚人は狭くて暗い牢獄の中で錯乱状態になって死ぬのに、コルベは祈りと歌声で他の囚人を励ましていて、餓死室はまるで聖堂のようだったという。
でも、ナチスはエドワード3世と違う。
この悪魔に慈悲とか憐憫といったものはなく、流れ作業のようにコルベを殺害した。
死後、コルベはカトリック教会の聖人になり、イギリスのウェストミンスター教会には彼の像がある。

「その人の代わりに私を」という崇高な自己犠牲の精神は、時代や国を越えて人びとの心を打つ。
でも、そういう英雄が現れるのは、歴史か物語の中だけで十分。
凡人の住む平凡な日常がじつは尊い。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。