【一線を越えた男】仏国王ルイ14世を怒らせたフーケの末路

 

「それをしたらオワリ」という絶対に越えてはいけない一線を、英語で「ライン・イン・ザ・サンド(line in the sand)」と言う。
「This is my line in the sand」だと、これが私の限界、譲れない一線といった意味になる。
「砂に引いた線」とはもともと19世紀のアメリカで、メキシコ軍と戦っていたテキサス独立派の中である軍人が足元の砂に刀で線を引き、アラモの砦に残って、敵と戦って死んでも構わないと思う人はこの線を越えるように言ったという伝説が由来になったとか。(アラモの戦い

前回の記事で、豪華すぎる家「紫雲閣」を建てて明治天皇を怒らせるという、日本国民の「ライン・イン・ザ・サンド」を越えてしまった男について書いた。

【浅野総一郎】明治天皇を怒らせたが、台湾人に感謝される偉人

このとき浅野は外国人を接待する迎賓館として、紫雲閣を使うことにすると明治天皇に説明し、納得してもらった。
浅野のように一線を越えても、何とか戻ることができた人もいれば、それができなかった人もいる。

 

フランスのルイ14世(1638年 – 1715年)は絶対君主制を確立し、ブルボン王朝の最盛期を築いた王で「ルイ大王」や「太陽王」と呼ばれた。
そんな偉大な王の下で、国の財政を扱う大蔵卿(おおくらきょう)になったニコラ・フーケは横領や汚職などで財産を築いていく。
大金持ちの階段を駆け上る一方で、フーケは”保険”をかけることも忘れない。
いつか自分が失敗して、誰かに追われるような事態になることを想定した彼は、島を買って要塞化してそこを最終的な避難場所とした。

浅野総一郎が紫雲閣を建てたなら、フーケは最高レベルの建築家、画家、造園家を集めてヴォー=ル=ヴィコント城を建設する。
そして彼は1661年にこの城で、超一流の料理に金のテーブルや銀の皿を用意して、6000人を招待するフランス史に残る豪華なパーティーを開催した。
フーケがそんな大パーティーをしたのは、ルイ14世に気に入られるため。
絶大な権力者の支持を得ることで、さらに多くの金や高い地位を手に入れて、一生笑いの止まらない生活を送ろうと考えた彼は、欲に目がくらんで一線を越えたことに気づいていなかった。

もともとフーケが金を不正に得ていることは聞いていたし、王宮よりゴージャスな城で行われたパーティーに参加して、ルイ14世はとても不快になり、この男を”終わらせる”ことにした。
パーティの3週間ほど後、王のお供として一緒にナントを訪れたフーケは、なんとそこで逮捕されてしまう。
その後開かれた裁判では要塞化された島と「防衛計画書」が問題視されて、コイツは王権を奪おうと企んでいたのでは? と疑われる結果を招く。
裁判の結果、フーケには国外追放が言い渡されたが、国王はその判決をヌルイと考えたらしい。

ルイ14世はこの判決に激怒し、終身刑に差し替えることを命じた。フーケは1665年の初頭にピネローロの要塞に収容され、1680年3月23日にそこで死去した。

ニコラ・フーケ

 

自分の人生にブーストをかけようと大パーティーを開いたら、それが原因で没落して、万が一のために島を買って要塞化したらそれがフーケの致命傷になった。

ルイ14世はパーティー会場となったヴォー=ル=ヴィコント城を参考にして、その城と同じ建築家、画家、造園家を使ってヴェルサイユ宮殿を築く。
国王に気に入られたのはフーケではなくて、城だったというオチ。
「紫雲閣」を建てた浅野総一郎はそこで外国人をもてなして、日本のために尽くしたけど、フーケは私利私欲でぜい沢の限りを尽くしただけで、そこには「公」の要素が無い。

こうなると本当の「ライン・イン・ザ・サンド」を越えたことになって、もう後戻りすることはできなくなる。

 

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。