【浅野総一郎】明治天皇を怒らせるも、台湾人に感謝される偉人

 

「セメント王に 俺はなる!」

と言ったかどうかは知らんけど、幕末から昭和初期まで生きた実業家の浅野総一郎はセメントで大成功を収めて、「セメント王」と呼ばれるようになる。
一代で浅野財閥を築いた彼は渋沢栄一を加えてサッポロビールを設立したし、自動車開発をおこなっていまの日産自動車の基礎も築いた。
神奈川にあるJR鶴見線の創始者は浅野だから「JR浅野駅」があるし、浅野家の家紋の扇に由来して「扇町駅」がつくられた。
「安善駅」は安田財閥の安田善次郎、「大川駅」は製紙王と言われた大川平三郎にちなんでいて、鶴見線には実業家に由来する駅が多いのだ。

そんな浅野は一度、とんでもないヤラカシをしてしまう。
彼は東京の三田に、金の鯱(しゃちほこ)のあるお城のような紫雲閣を建てて家族でそこに住み始めた。
これは田舎から出てきた人が皇居とカン違いして、思わず手を合わせてしまうような大豪邸だったらしい。
世間の常識を超えるだけならよかったが、紫雲閣の豪華さは異次元レベルで、ぜい沢を嫌う明治天皇を怒らせてしまう。
明治時代の日本において、これは国民の守るべき一線を越えた行為。
そこで浅野は紫雲閣を個人的な住居ではなくて、外国人を接待する迎賓館として使うことにすると弁明すると、日本のためになるのならと明治天皇は納得したという。
浅野は実際にそこで外国人の客をもてなして日本文化を紹介したから、紫雲閣は民間外交に役立っている。

そんな浅野総一郎の活躍は日本だけにとどまらなかった。

 

紫雲閣

 

日清戦争の勝利で1895年に清から割譲されてから、日本は終戦の1945年まで台湾を統治していた。
そのころの様子については、ここで確認するといいですよ。

鉱山の開発や鉄道の建設、衛生環境の改善や、農林水産業の近代化などで台湾の生活水準は向上し、農工業の生産も増加した。

日本統治時代の台湾

 

いまの台湾にもその時代の影響は残っていて、そんな「台湾にある日本」を紹介している台湾人の Hsu Hsu さんがまえにSNSにこんなメッセージを投稿した。

日本国の皆さん!!
台湾高雄市立博物館には【高雄港の父】と称した【浅野総一郎さん】の銅像が樹立されまして、皆さんはご興味が有りましたら、コロナウイルスが抑えられた時に是非とも高雄市へいらしてください。
台湾高雄市は日本国富山県氷見市とは【浅野総一郎さん】の繋がりで、【姉妹都市協定】を締結しました。

浅野総一郎

 

京都の高雄に由来する台湾南部の都市・高雄には、世界的にも有名で台湾を代表する港がある。

【日本統治の面影】京都の高雄に由来する、台湾の“高雄”

統治時代に北部の基隆から高雄まで鉄道が開通した後、日本は南方進出を見すえて、高雄に大型船も利用できる近代的な港をつくることにした。
そのための埋め立て工事を請け負った浅野総一郎はみごとにそのミッションを達成し、高雄港にセメント工場を建てる。
鉄道で北部とつながって、大型船が停泊できる近代的な港が整備されたことで、高雄は飛躍的に発展していく。
その基礎を築いた功績が認められて、浅野は「高雄港の父」と称賛されるようになった。
ちなみに浅野は東京湾の埋め立てなどをおこなって、京浜工業地帯の誕生に貢献したことから「京浜工業地帯の父」とも呼ばれている。

 

紫雲閣で明治天皇を怒らせるという大失敗はしたものの、浅野総一郎は日本や台湾の近代化に貢献し、台湾では「高雄港の父」として銅像を立てられるレベルで感謝や尊敬を受けている。
日台友好のためにも、日本人が覚えておいていい偉人だ。

 

 

台湾 「目次」

日本 「目次」

いまも台湾人に感謝される日本人、明石元二郎は何をした?

日本を旅行した台湾人の話①違い・驚き・好き/嫌いなこと

「釣りに行ってくる」と言って台湾を死守した日本人・根本博

【生きろ】日本軍人・廣枝音右衛門に台湾人が感謝する理由

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。