あした9月26日に「第46回 廣枝音右衛門氏慰霊祭」が台湾で開催される。
江戸時代のサムライのような響きの「廣枝 音右衛門(ひろえだ おとえもん)」は1905年(明治38年)に神奈川で生まれて、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)にフィリピンで亡くなった。
なんで台湾の人たちは2021年になっても、この人のために集まって手を合わせるのか。
廣枝 音右衛門
神奈川で小学校の先生をしていた廣枝は一念発起し、1930年に台湾へ渡って警察官になる。
当時の日本人警察官は現地の治安を守るだけじゃなくて、衛生管理や道路の敷設、教育などもしていた。
元教員の廣枝はその優秀な頭脳と温厚な性格から、「仁慈と博愛心に富んだ聖人的な人格である」と部下や現地の住民から頼られ、親しまれていたという。
そんなほのぼの生活は1937年(昭和12年)に日中戦争が起こると一変、廣枝は警官から陸軍の軍人になった。
中国と戦争していた日本は真珠湾攻撃を行って、アメリカとの全面戦争にも突入する。
廣枝は今度は海軍の軍人になり、海軍巡査隊500人を指揮するリーダーに選ばれて1943年にフィリピンのマニラへ移動する。
現地で捕虜の監視をまかされた彼は部下に、
「捕虜といっても同じ人間である。我々は保護監視のために来ているのだから無謀なことは決してしないように気を付けてやってくれ」
と言い聞かせていたという。
戦争末期のフィリピンにいた日本兵には武器以前に、生きるための食べ物さえなかった。
だから同じ日本人の肉を食べるカリバリズムさえ行われていたと、当時のフィリピンで日本軍と行動していた小松真一氏が書いている。
山では食糧がないので友軍同志が殺し合い、敵より味方の方が危い位で部下に殺された連隊長、隊長などざらにあり、友軍の肉が盛んに食われたという。
「日本はなぜ敗れるのか 敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21) 山本 七平」
21世紀になろうが令和になろうが、戦争が始まって飢餓地獄になったら日本人はまたこうなる。
圧倒的な物量と攻撃力を誇るアメリカ軍に、日本軍が勝てる可能性は万に一つもなくなった。
廣枝 音右衛門(ひろえだ おとえもん)の部隊には「その場で全員玉砕すべし」という命令が上から出され、爆弾を持って敵戦車に突っ込むといった特攻を行うよう迫られる。
廣枝は部下に向かって「死ね」と言う代わりに、「お前たちは生きろ」と米軍への降伏を示唆した。
「今ここで軍の命令どおり玉砕することは、まったく犬死に等しい。諸君の親兄弟は故国台湾で、一日も早く諸君の生還することを祈っている。このさい、米軍に投降してでも、捕虜となってでも、お前たちは生きて帰れ、玉砕命令にたいする責任は、隊長の私自身がとる。私は日本人だからね」
部下にこう言ったあと廣枝は拳銃で自決し、小学校の先生、台湾の警察官、そして最後は軍人として40年の人生を終えた。
このあと多くの部下が米軍に投降し台湾に戻った。
すべての責任をとって自分の命と引き換えに助けてくれた廣枝のことを、部下だった台湾人は戦後何十年たっても忘れなかった。
それはできなかった。
1975年ごろからそうした台湾人が連絡を取り合うようになり、廣枝のことが日台で知られるようになると、その過程で妻のふみが最期のようすを知り、「夫の死はムダではなかった」と声を上げて泣いたという。
「このままでは私達の心のしこりがとれない」という元部下らの思いから、台湾・苗栗の獅頭山にある勧化堂に廣枝の位牌が祀られて毎年9月に慰霊祭が開催されるようになった。
画像:Outlookxp
妻のふみも一緒に祀られている。
廣枝 音右衛門(ひろえだ おとえもん)の部下だった人たちはもう全員この世にはいない。
でも廣瀬への恩義や、上官と部下との絆を受け継いだ台湾人や日本人によって、あしたで46回目となる慰霊祭が開催される。
そのようすは日本時間11時50分から、「廣枝音右衛門氏慰霊祭FBページ」でライブ配信されるらしい。
日本・台湾の関係は政府間でも民間でも良好だ。
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