太平洋戦争の現実①敵は“飢え”。日本兵がフィリピンでしたこと

 

きのう8月15日は終戦記念日。
74年前のこの日、300万人もの日本人の犠牲を出したあの戦争が終わった。

令和になって初めて行われた式典にご出席された天皇陛下はこう述べられた。

さきの大戦において,かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い,深い悲しみを新たにいたします。(中略)戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ,ここに過去を顧み,深い反省の上に立って,再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い,戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し,全国民と共に,心から追悼の意を表し,世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

全国戦没者追悼式 令和元年8月15日(木)

 

一日遅れになってしまったけれど、今回は太平洋戦争について、日本兵の視点から書いていこうと思う。
陛下が述べられた「戦陣に散り戦禍に倒れた人々」はどんな生活をしていたのか?

 

フィリピン・レイテ島に上陸する米軍

 

太平洋戦争とは一言でいえば、「圧倒的な敵の攻撃を前にしてイモを植える戦争だった」。
当時、日本兵として米軍と戦った評論家の山本七平氏が著書でそう表現している。

その具体的な内容は、フィリピンで太平洋戦争を経験した小松真一氏が書いた「虜人日記(りょじんにっき)」を読めばわかる。
これはその当時、現地で記録したものだから、内容の正確性は信頼できる。

一個人の見聞きし体験したままの、この“絵日記”は希有で貴重な太平洋戦争の一次資料である。

虜人日記

戦後数十年がたってから、日本で証言されたものだと信頼性が薄い。
これは記憶の問題ではなくて、そのときの人間関係や利害関係、さらには自分の立場によって証言内容を変える可能性があるから。

 

小松氏がジャングルで記したメモ

 

小松氏が戦地のフィリピンに到着したとき、現地の責任者からこう言われた。

「何だって大本営は、兵員ばかりこんなにゾロゾロと送り込んで来るのだ。第一、糧秣がありゃしない、宿舎もない、兵器! とんでもない。そんなものがあったら、すでに到着した部隊を兵器なしで放り出しておくわけがあるまい。当分、シナ人墓地ででも宿泊してろ」

「日本はなぜ敗れるのか 敗因21ヵ条  山本 七平 (角川oneテーマ21) 」

 

米軍の前に、日本兵が戦わなければいけなかったのは食糧不足による飢えだった。
日常的に襲ってくるこの強敵と戦うため、食べられるものは何でも口に入れた。

オタマジャクシ、タニシ、大トカゲ、蛇、蛙、カタツムリ、ナメクジ、猿、犬、猫、鼠、コガネ虫、バッタ、蜂の子、コウロギ、カミキリの幼虫、セミなどが虜人日記に書いてある。

それと同時に、農地に適した土地を見つけて芋(イモ)を植えはじめた。

十日目位にどうやら芋蔓を持って帰って来たので芋植えが始った。然し芋ができるまでの糧秣はないので、この芋を誰が食べるか(われわれは所詮食べられないのだ)を考えると兵隊達は働くのを嫌がった。

「日本はなぜ敗れるのか 敗因21ヵ条  山本 七平 (角川oneテーマ21) 」

イモを植えても、それが育つまでの食べ物がないのが現状。

 

小松氏のように太平洋戦争当時、フィリピンにいた山本七平氏も同じような経験をしたのだろう。
「太平洋戦争とは、圧倒的な敵の攻撃を前にしてイモを植える戦争だった―― もしこれが戦争といえるならば。」と書いている。
さらに言えば、犬、猫、ネズミを見つけて食べる戦争でもあった。

現地には食べ物も武器もないのに、日本にいた大本営のお偉いさんは、兵士をどんどん戦地に送って次々と飢えさせた。
天皇陛下が述べられた「かけがえのない命を失った数多くの人々」、「戦陣に散り戦禍に倒れた人々」の中には、こういうバカげた作戦の犠牲者が本当にたくさんいるのだ。

このときの戦いの全体像についてはここをどうぞ。

フィリピン進攻以降のフィリピンの戦いでの日本軍の戦死者(戦病死者を含む)は日本軍がアジア・太平洋戦争で戦った全戦線において最も多く、その過半はフィリピン防衛戦での餓死と推定され、極度の飢餓から軍の統制は崩壊し、各々食糧を求めて彷徨ううちに時に畑の芋を巡って争い、一部に人肉食に至るなどしたという。

フィリピンの戦い (1944-1945年)

こんな経験はもういらない。

次回は米軍との戦闘編。
こっちも悲惨で、小松氏は「まるで戦争にならん。」と書いている。

 

 

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4 件のコメント

  • 日本人は、海外の戦争占領地に対し、長期間継続的に物資補給しつつ運営するなんて、そんな能力ないですよ。
    歴史上、誰もそんな戦争を経験していないのだから。戦争行為の上で日本人が長けている点は、ほぼ例外なく、奇襲攻撃による短期決戦です。それしか能がないと言っても良い。
    長期戦における補給の重要性は、例えば中国なんかだと、三国志の時代から何度も歴史上のメインテーマとして扱われているくらいです(諸葛孔明、第一次北伐の失敗の原因は輜重隊の不備にあると分析)。
    日本史上、土木建設技術と物資補給の重要性に着目して戦争行為を優位に進めた唯一の存在は、おそらく豊臣秀吉の戦法だったでしょう。ただ、その秀吉にしても、朝鮮半島へ踏み出してそこを占領して運営するなどという才覚は、全く無かった。その失敗を徳川家康は自分のアタマに刻み込んだことでしょう。

  • 山本七平氏の本に書いてありますけど、日本軍は米軍との戦力さや物資の違いを「~主義」という精神力で埋めようとしていたようです。
    だから「補給がなくて戦えない」と言える空気は大本営にはなかったとか。
    日本は島国で狭い国ですから、補給を確保したうえでの長期戦は苦手ですね。
    太平洋戦争も短期決戦ならともかく、長期戦になったところで命運がつきました。
    なお、「現代日本はどうでしょうか。」以下はこの記事の内容とは別ですので、編集させてもらいました。

  • 日本軍の飢餓は「兵站を無視」したからではなく「兵站が破綻」したために発生したとも言えます。

    実は日本海軍も開戦前から、敵の攻撃である程度の輸送船が沈められるのは想定して、問題にならないよう計画を立てていたのですが、米軍の通商破壊は想像を絶する密度だったのです。
    当時、「輸送船一隻の沈没は歩兵一個連隊の全滅に等しい」とも言われていた程の損害だったのですが、それを守るだけの手立てがなかった。
    これは、日本海軍の規模や装備では、全ての輸送船や航路を守る事が出来ず、またその為の訓練や計画もなかった為です。
    その遠因は日露戦争後の海軍の教育と体質あるように思われます。
    日露戦争における日本海軍の戦いは、本来はロシア海軍から本土と大陸の連絡線を守るための戦いだったのに、華々しい艦隊決戦に目を奪われ、その背景や戦略的意義を曲解されてしまったのがそもそもの間違いだったと思います。
    今も日本海海戦などは「ロシア海軍の主力を全滅させた戦い」という説明が多いですが、もっと大局的に見れば「ロシア海軍から日本近海の通商、大陸との兵站を守った戦い」です。
    ところが艦隊決戦ばかりが強調されてしまい、制海権を取るとして、何のための制海権なのかまでを考えなかった為に、海面だけを確保して敵潜水艦の跳梁を許してしまった。

  • 日本軍が兵站をどう見ていたかは、記事にある山本七平氏や小松氏もくわしく記述しています。
    それぞれの著書をぜひご覧ください。
    「輸送船一隻の沈没は歩兵一個連隊の全滅に等しい」であるはずなのに、バシー海峡では本当に無謀なことをしていました。

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    今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。