「タイ」という国名には「自由」という意味がある。
でも仏教の世界でいうなら、日本の自由度はめちゃくちゃ高かった。
タイ人が日本にやってきて驚くことに、「タイと日本との仏教(お坊さん)の違い」がある。
友人のタイ人が「タイなら絶対ないですよ!」と怒りながら話していたことがあった。
彼が新幹線で東京まで行こうとして待合室にいたところ、袈裟(けさ)を着た1人のお坊さんが雑誌を読んでいるのを見た。
タイ人の彼が驚いたのは、その雑誌の表紙。
水着姿のアイドルが天使の笑みを浮かべていたという。
「タイなら大問題ですよ。鉄道の駅でお坊さんがあんな雑誌を見ていたら、みんな怒ります。お坊さんをやめさせられますよ」
タイなら、そうなんだろうなあ。
まあ、日本でも良いだとは思わないけど。
そんなことから、彼とタイと日本の仏教(お坊さん)の違いについて話した。
ということで今回は、彼の話と「ぼうず丸もうけのカラクリ(ダイアモンド社)」を参考にしながら、日本とタイの仏教(お坊さん)の違いについて書いていきたい。
・お酒
日本のお坊さんはお酒を飲んでもOK。
「泥酔した姿」をお釈迦さまが見たらびっくりするでしょうけど、「一緒にお酒を飲んで話を聞いてくれるお坊さんがいい!」と檀家さんから支持されているのも日本の現実
「ぼうず丸もうけのカラクリ(ダイアモンド社)」
ということで、「つき合い」で飲んでいるらしい。
つき合いだけじゃなくて、酒が大好きなお坊さんもいると思うけど。
日本ならお坊さんの飲酒は問題視されない。
そもそも、東京には「坊主バー」というものがある。
こんなコンセプトのバーらしい。
「現役の僧侶と楽しく過ごす 僧侶の法話を聴く 人生を語り合う そんなBARです」
これも、さっきの本の内容と考え方が似ている。
いっしょに酒を飲んで何でも自由に話すということが、日本の仏教では必要なんだろう。
これも、日本のお坊さんが「人びとの近くにいることが大事」と考えているということだと思う。
明治時代、シドモアというアメリカ人の女性が日本を訪れている。
シドモアの紀行文には、当時の清水寺がこうある。
寺院境内の立て場は、宴会客や大酒飲みの客で込み合い、果物屋には切り売りの西瓜が山と積まれ、さらに清水寺の舞台を描いた扇子が両脇で売られています
(シドモア日本紀行 講談社学術文庫)
明治時代には、清水寺という日本を代表するお寺のに「大酒飲み」がいたらしい。
今の清水寺で飲酒が禁止されているのかは分からないけど、境内で酔っ払いを見たことがない。
そのだけ進歩したのかもしれない。
タイのお坊さんは、飲酒なんて絶対にダメ。
一般のタイ人とお坊さんがビールを飲むことはあり得ない。
お坊さんを飲みに誘うタイ人も考えられない。
お酒が大好きなタイ人でも、お寺の中で酒を飲むなんていう考えが浮かばないはず。
坊主バーなんて開いたら、「ほほ笑みの国」のタイ人も絶対に許さないだろう。
・肉食
日本のお坊さんはお肉を食べることができる。
でもそれが行きすぎて、京都で「仏教と肉食」が問題になった。
京都の仁和寺では桜が咲いて、たくさんの人が集まるころになると境内の茶店が「すき焼き」を提供していた。
でも2011年にこれが問題に。
「殺生を禁止する仏教のお寺の中で、すき焼きを食べることはけしからん!」と「すき焼き禁止令」が出たと京都新聞の記事にある。
「世界遺産の寺の真ん中で肉を食べるのは宗教的な尊厳を守る上で好ましくない」との理由だが、長年、茶店を運営してきた門前の業者は「なぜ今唐突に」と困惑している。
御室桜の仁和寺、夜桜のすき焼きは禁止に
タイのお坊さんは肉を食べることができないし、お寺の中で肉を焼いて食べる人もいないから、タイだったら最初からこんな問題は起こらなかったという。
これは、タイ人気質のマイペンライ(大丈夫・問題ない)ではすまない。
ここまで読んできて「何で日本の仏教では、飲酒や肉食がOKなのか?」
と疑問をもった人もいると思う。
それにはこんなワケがるらしい。
日本や中国に伝わった大乗仏教では、僧侶は信仰心が厚いのだから、戒律は自然に守られるという考え方に立脚しています。
その結果、とくに日本では僧侶も飲酒、肉食、妻帯もよいこととされて、何か悪いことをすれば、僧侶であれ誰であれ、自業自得としてバチがあたるからそれでよいのだという考え方なのです。(仏教108の謎 田代尚嗣)
日本には、奈良時代に中国人の僧「鑑真」が戒律をもたらしている。
でも上の文のように、戒律をあまり重視しなくなったのは平安時代の最澄からだと司馬遼太郎の本で読んだ記憶がある。
・お布施と喜捨
日本の仏教とタイの仏教で似ていると思ったのが、お布施のこと。
いただいた「お布施」はいったん「お寺」へと入ります。お布施がお寺の通帳に入ったあと、僕たちはお寺から給料をもらっています。
「ぼうず丸もうけのカラクリ (ダイアモンド社)」
「一度お寺に集められた後、それぞれのお坊さんに配られる」という点では、タイ仏教の喜捨(きしゃ)も同じ。
喜捨
進んで寺社、そうや貧者に金品を寄付すること(大辞泉)
タイを旅行した人なら、朝になると鉢(はち)を持ったお坊さんを見たことがあるんじゃないかな?
一般のタイ人が、その鉢に食べ物やお菓子などを入れる。
タイ人にとっては、お坊さんに食べ物を「お渡し」することで「良いおこない」をすることができる。
タイの社会では、そのことで徳を積むことになり、良い来世を迎えることができるという考えがある。
これをタイ語で「タンブン(功徳)」という。
このタンブンは、タイの社会の常識やタイ人の基本的な発想になっている。
タクシードライバーが信号待ちでお寺に向かって手を合わせるのも、このタンブンの発想にもとづいている。
タイ仏教の喜捨では、集めた物をお寺にもって帰って一度その中身を集める。
そこから、それぞれのお坊さんに配るという。
托鉢ではもらった物を食べることがお約束だから、もし肉があった場合はお坊さんでもその肉を食べてもいいという。
さらにあまった食べ物は、お寺にいる猫や犬にあげるらしい。
タイ人の友人の話で、タイのお寺に行ったときにやたらと犬や猫がたくさんいる理由が分かった
ちょっと話はそれるけど、今のタイの仏教界で問題になっているのがタイ人僧侶のメタボ化。
最近では、高カロリーの食べ物を喜捨するタイ人が増えているらしい。
下は、それを報じたニューズウィークの記事。
日本にもタイにも、いろいろな問題があるらしい。
おまけ
友人のタイ人がシェアしていた動画。
タイの仏教徒とお坊さんの関係が見えてくる。
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