織田信長のフレンドリーな性格・好奇心と創造力について

 

はじめの一言

*跣は「はだし」
「日本はおそらく世界一礼儀の正しい国民である。跣で歩き、アメリカ人ほど衣類は身につけないが、文明人と自称する多くの国民よりも、たしかに礼儀正しく親切である。(クラーク 明治時代)」

「日本絶賛語録 小学館」

 

 

今回の内容

・意外と親しみやすい織田信長
・好奇心旺盛な織田信長

 

前回は、戦国時代の織田信長がどれだけ残酷なことをしたかを書いた。

一般的に、織田信長には「残忍な人間」というイメージが強くある。
ボクが会った中学生でも、「だから信長はキライ!」という生徒が多くいた。

今回は、そんな血も涙もない冷血漢なイメージから離れて、信長の親しみやすい性格や優れた発想力を紹介したい。

 

・意外と親しみやすい織田信長

16世紀、ヨーロッパ人の黒人奴隷に対する「扱い」は残酷なものだった。

足に鉄の鎖をつないで船の底に閉じ込め、反抗したらナイフで体を切り刻む。
そして病気になったら、生きたまま海に放り込んでサメのエサにするようなことをしていた。

 

こうしたことを考えると、織田信長と出会った黒人奴隷は幸せだ。
「弥助(やすけ)」という名前を与えられて、武士になっている。
当時の他の奴隷に比べたら、考えられないような待遇だ。

 

でも、この「奴隷解放」は信長の人道的なおこないというより、信長の寛大な性格や身分を重視しない平等観がその根底にあったと思う。

ウィキペディアに、そうした信長の人がらをしめす例がいくつかある。

身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。 対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賎の家来とも親しく話をした

信長は敵に一切容赦しなかったし、家臣に対しても厳しかったけど、こんな感じで庶民には同じ目線で接する面もあったのだ。

 

『信長公記』などの逸話によると、身分に拘らず、庶民とも分け隔てなく付き合い、仲が良かった様子が散見される。実際、庶民と共に踊ってその汗を拭いてやったり、工事の音頭を取る際などにはその姿を庶民の前に直接現している。

ユニークな逸話として、天正10年(1582年)の正月に安土城の内部を一般公開し、武士・庶民を問わず大勢の人々を城内に招き入れて存分に楽しませた後、信長自らの手で客一人につき銭百文ずつ見物料を取り立てたという記録が伝わっている。

(ウィキペディア)

 

前回書いたけど、信長は自分に敵対した人間は皆殺しにしたり、その人間の頭蓋骨に酒を入れて飲んだりするといった、常軌を逸した行動をみせていた。
けれど、身分の低いものには親しみやすい一面をみせている。

 

「ごく卑賎の家来とも親しく話をした」
「庶民と共に踊ってその汗を拭いてやったり」

というのはかなりフレンドリーだと思う。

 

 

・好奇心旺盛な織田信長

また、信長は好奇心が旺盛で、新しいものが大好きであった。

 南蛮品を好み、正親町天皇を招き開催した「京都御馬揃え」にビロードのマント、西洋帽子を着用し参加した。

(ウィキペディア)

 

鉄砲という新しい武器に注目したことにも、信長の新しいもの好きの面があらわれている。

好奇心が強く、まだ鉄砲が一般的でなかった頃から火縄銃の性能を重視し、長じて戦国最強の鉄砲部隊を編成するに至った。

(ウィキペディア)

 

「織田信長に鉄砲」ときたら、なんといっても「長篠の戦い」だろう。
鉄砲をいち早く取り入れたこともすごいけど、その新兵器を効果的につかう戦術をあみ出したことこそ特筆すべきだろう。

【長篠の戦い】

1575年五月,長篠城の西方設楽原したらがはらで行われた織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍との戦い。連合軍は多量の鉄砲を用いて大勝利を得た。鉄砲が初めて効果的に使われ,以後の戦術・戦法に大きな影響を及ぼした。

(大辞林 第三版の解説)

 

かつては、長篠の戦いでの「鉄砲の三段撃ち」が有名だったけど、これはかなり「あやしい」らしい。

鉄砲三千丁・三段撃ち」が通説だったが、近年は疑問視される傾向が強くなっているという。

(朝日新聞掲載「キーワード」の解説)

 

強い好奇心と人並みはずれた発想力によって、信長は世界で初となる「鉄甲船」をつくりだしている。
信長は石山本願寺との戦いで、村上水軍に大阪湾の支配権をうばわれてしまった。
その制海権を奪い返すために投入されたのが、この鉄甲船になる。

イエズス会のオルガンティノも、この船を見物に行った一人で「日本でこんな船ができるのか」と感嘆の声を上げている。

大きさに関しては、長さ十三間(約23メートル)、幅七間(約17メートル)ほどであったらしいが、本体の木造部分の上に薄くのばした鉄板を貼りつけるという、海洋帝国のイスパニアやポルトガルでも、まだ実現すらしていなかった世界最初の鉄甲船なのである。

(逆説の日本史 10 井沢元彦)

 

この奇想天外な兵器に、村上水軍は太刀打ちできなかった。

鉄甲船の開発によって信長は見事に村上水軍を撃滅し、大阪湾の制海権を奪い返した。

(逆説の日本史 10 井沢元彦)

 

歴史作家の井沢元彦氏は、信長を次のように評している。

信長は一方で新奇なものが大好きで好奇心の固まりのような人間でもある。そして、それに優れるとも劣らない常人を超えた斬新な発想力もある。(逆説の日本史 10 井沢元彦)

 

織田信長は、人の身分というものをまったく気にかけないで低い身分の人にも親しげな様子を見せている。
また、能力を見抜いて人を抜擢したことで、豊臣秀吉のような人間がうまれている。
さらに、鉄砲という新しい武器を導入して、それまでになかった戦い方をもうみ出した。
それだけではなく、鉄甲船という世界で初となる船をつくり出している。

すべてが常識外、規格外の日本人だ。

次回は、そんな「織田信長が日本人に与えてくれた最大の贈物」について書きたい。
それが、比叡山焼き討ちと長島一向一揆。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。