【世界の独裁者】不幸な最期と、もはやマンガのサラザール

 

独裁者のキーワード、それは「恐怖」。
自分に逆らったり、そう思わせた人間を次々と処刑したり強制収容所へ送ることで、人々の心に恐怖を刻み込むことで自分の意のままに政治を行う。
でも脳卒中で倒れたスターリンの場合、眠りをジャマされたと怒られるのを怖れた周囲の人間が彼の寝室に入らず、発見が遅れたことが死亡原因のひとつになった。

【独裁者の自業自得】プーチン氏の現在とスターリンの最期

米ホワイトハウスの分析によるといまロシアでは、側近らがプーチン大統領を怖れて正しい情報が伝えられていないという。
となると、この有名なコピペを貼るしかないじゃないですか。

現場「これ絶対やばいですよ!」
ヒラ「なんかやばいらしいです」
主任「やばいかもしれないって」
係長「懸念すべき事項が一つ」
課長「一つを除き問題ありません」
部長「実に順調です」
社長「うむ」

イエスマンを周囲に置いて、現実や事実が見えなくなるというのは「独裁者あるある」のひとつだ。

後世の人たちに称賛されて像が建てられたり、マンガやゲームの主人公になる織田信みたいな人気者もいるけれど、独裁者というのは、ろくな死に方をしないというのが歴史やマンガのテンプレ(お約束)。
ということで、ここでは世界の独裁者とその最期を見ていきましょー。

 

○アドルフ・ヒトラー

第二次世界大戦中にホロコーストを行って600万人のユダヤ人を虐殺し、結局は戦争に負けてドイツを滅ぼしたヒトラーは1945年に拳銃で自殺した。(青酸カリという説もある)
連合軍の手に渡ることを恐れて、遺体は大量のガソリンをかけられ焼却された。
そういえば100万人以上の国民を虐殺して、「アジアのヒトラー」といわれるカンボジアの独裁者、ポル=ポトは古タイヤと一緒に遺体を燃やされたっけ。

 

ポル=ポトの墓

 

○ムッソリーニ

国家ファシスト党のドゥーチェ(統領)となり、ヒトラーと一緒に第二次世界大戦を戦ったイタリアの独裁者ムッソリーニは、銃殺されたあとミラノ中央駅にの広場に遺体を放置される。
その後、怒り狂った市民のリンチを受けて、遺体は逆さづりにされた。
ヒトラーと同じ1945年の出来事。

 

○ピノチェト

チリの独裁者で多くの市民を虐殺・拷問し、強制収容所へ送ったピノチェト(1915年 – 2006年)の場合は大統領を辞任したあと、数々の犯罪行為に対する裁判を起こされるも、痴ほうが認められて裁判は途中でストップした。
最期は病院で心不全のために亡くなったのは、独裁者にしては恵まれている。

 

○アミン

50万人の自国民を虐殺したとされ、「黒いヒトラー」や「アフリカで最も血にまみれた独裁者」と称されたのがウガンダの独裁者アミン(1925年 – 2003年)。
反体制派からの攻撃や軍内部の離反もあって、失脚したあとはサウジアラビアへ亡命する。
ウガンダへの帰国を願ったがそれはかなわず、サウジアラビアの病院で失意のなか病気のため死亡した。

この独裁者は、日本人にとってはネタとツッコミどころが満載だ。
東アフリカのボクシングヘビー級チャンピオンになったこともあるアミンは、モハメド・アリがレフェリーとなり、アントニオ猪木との試合を承諾していた。でも国内でクーデターが起きて、それどころじゃなくなる。
この「アミン」の響きを面白いと思ったさだまさしさんは、「パンプキン・パイとシナモン・ティー」の曲に出てくる喫茶店の名前を「安眠(あみん)」とした。
さださんのファンだった岡村孝子さんは、ここからグループ名を「あみん」にする。
だから元をたどると、「黒いヒトラー」や「アフリカで最も血にまみれた独裁者」に行きつく。ほとんどのウガンダ国民は彼の帰還を待っていなかったはず。

 

○チャウシェスク

ルーマニア共産党政権のトップとして1960年代から24年間、絶対的な権力を握り続けていたのがチャウシェスク(1918年 – 1989年)。
彼の失政のせいでルーマニア国民の生活は貧しくなり、食べ物や冬の暖房で使う燃料も手に入らない状態となる。
1980年代、ほとんど商品のない店に国民が長い行列をつくる一方で、チャウシェスクは首都ブカレストに「国民の館」というドでかい宮殿を建設する。
*政府系の建築物としてはアメリカのペンタゴン、タイの新国会議事堂に次いで世界第3位の大きさだ。
チャウシェスクはもはや「ルーマニアの絶対皇帝」で、共産党や国家の要職も家族や親族が独占し、飢える国民を犠牲に繫栄を謳歌していた。
でも、1989年にルーマニア革命が起こるとすべてが一変し、革命軍に捕まったチャウシェスクは妻エレナとともに銃殺刑に処される。
生存説を打ち消すために、その裁判の様子と死体は全世界に公開された。

ルーマニアの独裁者が死を宣告されて処刑されるまでの動画。
自己責任でどうぞ。

 

 

チャウシェスクが大統領だったころ、周囲の人間は政治の失敗を隠し、成功しているという「偽装工作」を行っていた。
たとえばチャウシェスクが訪問する店には、到着する前にあふれんばかりの品物を並べておき、チャウシェスク政権によってもたらされた「高い生活水準」を演出する。
またチャウシェスクが農場へ行く時は、その前に国中から健康そうな牛を集めて放っておいた。
だからチャウシェスクには、国民の困窮という現実が見えてなかっただろう。

多くの人間を死に追いやった独裁者には、犯した罪には足らないが不幸な死に方が用意されている。
その点、ポルトガルの独裁者サラザールは例外だ。

 

アントニオ・デ・オリヴェイラ・サラザール(1889年 – 1970年)

 

サラザールは独裁者だ。
ポルトガル語で「新国家」を意味するエスタド・ノヴォという、ヨーロッパでは最長となる独裁体制を確立した人物で、秘密警察をつくって反対派を弾圧した人物だ。

でも教育に力を入れた彼は、全ての国民に初等教育を受けさせて、ポルトガルの識字率を西ヨーロッパで最高レベルに押し上げる。
また経済を立て直すことに成功したし、第二次世界大戦では中立の立場を維持したことで、ポルトガル本土は枢軸国・連合軍のどちらからも攻撃を受けず「安全地帯」になっていた。
でも戦後、海外の植民地を失って、ポルトガルは西ヨーロッパの最貧国に転落する。

憎まれ要素と愛され要素のあるサラザール。
彼は1968年8月にイスが壊れたかお風呂に落ちたかして、頭を強くぶつけ、そのあと脳出血の症状が現れて意識不明の重体となる。
それで政権はマルセロ・カエターノ首相に一任されることとなり、サラザールはそのまま目覚めることなく息を引き取った。…というのなら、このあとのマンガのような展開は起こらなかった。
その後、昏睡状態から意識を取り戻した時、サラザールはすでに独裁者でも権力者でも政治家でもなく、ただの老人でしかなかった。
でもそれを知ったら、彼がショックを受けると思った周囲の人間が配慮して、チャウシェスクの時とは逆の目的で「偽装工作」を行うことにした。
側近たちは以前と同じ執務室にサラザールを座らせて、偽の新聞や何の意味も効力もないニセの命令書を書かせる。
現実にはマルセロ・カエターノ首相がポルトガルを動かしているのに、側近たちはサラザールに、死ぬまで自分が国の最高権力者として君臨しているという幻想を与え続けた。
そして真実を何も知らないまま、サラザールは1970年に息を引き取る。
ボクの知る限り、夢の世界で死んでいったサラザールは、世界でいちばん幸せな最期を迎えた独裁者だ。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。