ヨーロッパ中心主義というバカな考え・日本とポルトガルの関係

 

「もし文明という言葉が物質文明を指すなら、日本人はきわめて文明化されていると答えらえるだろう。
なぜなら日本人は、工芸品において蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達しているからである。
それにヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。(シュリーマン 江戸時代)」

「日本絶賛語録 小学館」

 

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今回の内容

・スペインとポルトガルの勝者の理由
・ヨーロッパ中心主義
・ポルトガルが与えた日本への影響

 

・スペインとポルトガルの勝者の理由

高校のとき、世界史を習っていたとき、こんな疑問をもった。
何で、イベリア半島の国(スペイン・オランダ)が、大航海時代で他のヨーロッパの国を出し抜いて世界のいろんな土地を奪うことができたのか?

何で、大航海時代の勝者になることができたのか?

その理由について、歴史家の陳舜臣氏は、「曼荼羅の山 集英社文庫」で、こう書いている。

「答はかんたんである。十五世紀から十六世紀にかけて、ヨーロッパで最も文化程度の高かったのが、イベリア半島だったからなのだ」

前回の記事で、レコンキスタ(国土回復運動)について書いた。

レコンキスタ(国土回復運動)

イスラーム教徒からイベリア半島の領土を奪回しようとしたキリスト教徒の戦い。8世紀初めから1492年まで、ほぼ800年間続いた。

(世界史用語集 山川出版)

約800年かけて、イスラム教徒からイベリア半島を奪い返し、キリスト教徒の国を成立させた。

では、このレコンキスタが終る前まで、ヨーロッパとイスラム圏の国は、どのような状態だったのか?
それも、「曼荼羅の山」に書いてある。

「当時のイスラム圏は、世界でも最高の文化を誇っていた。ヨーロッパは「暗黒の中世」といわれるように、学問の自由もなかったのである」

「イベリア半島のアンダルスには「すぐれた文化があり、ヨーロッパのほかの部分にくらべて、知的レベルが格段に高かったのである」

一言でいえば、当時のアラブ(イスラム)世界は、ヨーロッパより進んでいた。
現代の言い方をすれば、イスラムの国々が先進国であって、ヨーロッパの国々は発展途上であった。

「航海に必要な数字や天文学のレベルが高かったのだから、発見競争の勝者となったのは、とうぜんであろう」

イベリア半島を再征服したスペイン人やポルトガル人たちが、イスラムの先進的な知識や技術を受け継ぐことで、大航海時代の勝者となることができたということになる。

 

 

・ヨーロッパ中心主義

ただ、レコンキスタが終った後、今度は、スペインとポルトガルが争うようになる。
今度は、この二つの国が争いをすることになる。

航海をして新しく見つけた土地は、どっちの国が手に入れることができるのか?

その争いを解決したのが、キリスト教(カトリック)の頂点に立つローマ教皇。
レコンキスタが完了した次の年の1493年に、植民地分界線(教皇子午線)というものを決めている。

これが、当時のヨーロッパ人の考え方をよく示している。

植民地分界線(教皇子午線)

「1493 教皇アレクサンデル6世が設定した、ポルトガルとスペインの海外領土分割線。両国のあいだで海外領土を巡る対立が生じたため、スペインが設定を要請した。アフリカ西岸ヴェルデ岬西方550㎞の子午線を境に、東がポルトガル領、西がスペイン領と定められた

(世界史用語集 山川出版)」

これって、とんでもないことでしょ?
世界を二つに分けて、「東は、ポルトガルのもので、西はスペインのもの」と決めるなんて。
ローマ教皇やヨーロッパ人に、そんなことができる権利はないはず。

でも、この時代のヨーロッパ人は、それができると考えていた。 ヨーロッパこそが世界のNO.1であって、世界をヨーロッパ人で分けることを当然のように思っていた。 こんな考えを、「ユーロセントリズム(ヨーロッパ中心主義)」という。

 

ヨーロッパ中心主義

ヨーロッパ中心主義(ヨーロッパちゅうしんしゅぎ)とは、本来は地球上に数ある諸文明の一つに過ぎない欧州文明を格別のものとしてみなす考え。欧米文明を西洋としこれ以外の文明を全て東洋とすることなどはその一例とされる。

ヨーロッパ中心主義は、15世紀から17世紀の大航海時代に始まる。

(ウィキペディア

このヨーロッパ中心主義の発想は、大航海時代の後も続く。
何で中東やアフリカの国境が直線が多いのか?

 

ヨーロッパ人が自分たちの都合で勝手に決めて地図に引いた線が、そのまま現実の国境になってしまったから。
ちなみに、この時代の中国人も「中国は、世界の文明の中心」と考える中華思想をもっていた。

 

・ポルトガルの日本への影響

日本に初めて来たヨーロッパ人は、1543年に種子島に着いたポルトガル人だと言われている。
何で、ポルトガル人なのかは、ローマ教皇が決めた「植民地分界線(教皇子午線)」によるところが大きいという。

 

そして、この時代のポルトガルが日本に与えた影響は、とても大きい。
まず、現代の日本語にも、この時代のポルトガル語に由来するものがたくさんある。

「日本史用語集 山川出版」には、こんな言葉が紹介されている。

ジュバン、カッパ、ボタン、ラシャ、パン、テンプラ、カボチャ、カステラ、コンペイトウ、カルメラ、タバコ、キリシタン、デウス、カルタ、シャボン

でも、歴史的には、やっぱり鉄砲伝来の影響が大きい。

初めて見た鉄砲を、日本人はすぐに自分たちで作って、大量生産してしまう。
この技術力にポルトガル人も驚いたという。
この鉄砲の登場で、戦国時代の戦い方が変わり、戦国時代を早く終わらせることができた大きな要因にもなった。

ところで、豊臣秀吉が戦国時代を終わらせて、日本全国を統一したのは、いつか?
これは、1590年になる。

1590年、大軍で小田原城を包囲し、3ヵ月後、氏政を降伏させた。すでに伊達政宗らも秀吉に臣従しており、ここに全国統一が達成された。

(日本史用語集 山川出版)

この全国統一の後、豊臣秀吉は朝鮮へ出兵している。
釜山に現われた日本軍は、たちまちのうちに、現在の平壌まで占領してしまった。

その後に援軍として来た明の軍も、日本軍を相手に苦戦した。
この理由として、中国や朝鮮(李氏朝鮮)には、鉄砲での戦いを経験したことがなかったことがあるという。

秀吉が朝鮮に出兵したのは、文禄元年(一五九二)だが、朝鮮軍も、それを支援した明軍も、日本軍の「鳥銃」すなわち鉄砲を最もおそれたといわている。

(曼荼羅の山 陳舜臣)

1543年に鉄砲が伝来してから47年後の、1590年に秀吉が日本を統一して、戦国時代という大きな混乱期を終わらせている。
でも、この間、スペインでは大きな出来事が立て続けに起きている。
1568年に、オランダがスペインから独立をすべく、「オランダ独立戦争」が始まったのだ。
さらに、イギリスとの戦争も始まってしまう。

次に、スペインとオランダ、日本とオランダの関係について、書いていきたい。

 

 

おまけ。

秀吉の朝鮮出兵のとき、朝鮮は明(中国)に支援をお願いした。
それを受けて明の皇帝が送った明軍の兵士を当時の朝鮮人は、「天兵」と呼んでいた。そのまま、「天から来た兵士」という意味になる。

朝鮮から見たら、明は、まさに「天」だから。
当時の朝鮮が、中国をどう見ていたかがよく分かる。

 

さらに、おまけ!

朝鮮出兵のときに、活躍した朝鮮軍の李舜臣という将軍がいる。
韓国の国民的英雄で、「だれでも知っている」という有名人。

でも、この「舜臣」の意味を知っている人はまずいない。
この「舜」は、中国の皇帝「舜」をあらわす。

つまり、「舜臣」とは「舜皇帝の臣下」ということになる。
当時の朝鮮人としては、これは常識的な考え方。

まあ、今の韓国では教えないだろうけど。

 

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この将軍。

ソウルに旅行に行ったら、見たことないかな?
景福宮を背中にして南を向いている。

もちろん、日本をにらんでいる。

この像を見たことなくても、ソウルの地下鉄の駅「忠武路駅」なら利用したことがあるんじゃないかな?
この「忠武」は、李舜臣のこと。

1946年に李舜臣の諡号(忠武公)からとった現在の名前に変更された。

(ウィキペディア)

 

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カテゴリー: ヨーロッパを知りましょ!

 

 

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今まで、東南アジア、中東、西アフリカに旅をしてきました。外国に行って初めて気がつく日本の良さや特長があります。以前、歴史を教えていたので、その経験もいかして、日本や世界の歴史や文化などをテーマに、「読んでタメになる」ようなブログを目指します。