【ウィーン包囲】ヨーロッパ、トルコという“恐怖”を克服する

 

全体の流れが変わるタイミングを「ターニングポイント」という。
日本史でいうと、1600年に行われた関ケ原の戦いがまさにそれ。
この戦いに負けた豊臣側は日本を統治する力を無くした一方、勝者となった徳川家康は強大な力を手に入れて、圧倒的に優位な立場になる。
そして大阪の陣で「残り火」となっていた豊臣家を滅亡させて、徳川将軍を頂点とする江戸時代が約260年間つづくこととなる。

関ケ原の戦いと同じ17世紀、ヨーロッパでも、その後のターニングポイントとなる重要な出来事があった。
それが1683年のきょう9月12日にあった、第二次ウィーン包囲での最終決戦だ。

まずこれには伏線となる出来事がある。
1529年の5月、オスマン・トルコ帝国の皇帝(スレイマン1世)が10万以上の大軍を率いて、イスタンブールを出発し、神聖ローマ帝国の皇帝のいるウィーンまで進軍する。
そしてそこを取り囲んで包囲戦が始まる。(第一次ウィーン包囲
でもこの時はオーストリア軍の粘り強い抵抗によって、オスマン帝国はウィーンを陥落させることはできなかった。
だかしかし、この包囲戦によって、ギリシャを含むバルカン半島がオスマン帝国の支配地となる。
これがヨーロッパ世界に与えた衝撃はすさまじい。
なんせローマ法王のいるヴァチカンまで、あと少しのところまでイスラム帝国が迫ったのだから、第一次ウィーン包囲でヨーロッパ諸国は大きな危機感や恐怖を持つようになる。

このトラウマやオスマン恐怖症を打ち消し、ヨーロッパ人に自信を与えたのが「第二次ウィーン包囲」だ。
1683年7月、15万のオスマン帝国の軍が神聖ローマ皇帝のいるウィーンへ進軍し、150年前と同じように包囲する。
でも、神聖ローマ帝国もアホの子じゃない。
「そうくると思ってました」とばかりに、最新の技術で要塞化されていたウィーンは、以前よりはるかに防御力をアップしてトルコの侵攻に備えていたのだ。
オスマン軍は攻め手に欠いて、戦いは長期化していく。

するとそこへ、ポーランド・オーストリア・ドイツ諸侯の連合軍がやってきて、9月12日にオスマン軍とのバトルが始まる。
結果、総崩れとなったオスマン軍の大敗北。
壊滅状態となった敵軍を見て、ポーランド国王ヤン3世は「圧倒的じゃないか、我が軍は」と叫んだ。…という話は知らんけど、「来た、見た、神は勝利した。」とヤン3世は語った。
この元ネタはもちろんカエサルの「来た、見た、勝った」というセリフ。

 

1453年に東ローマ帝国を滅ぼしたオスマン・トルコ帝国皇帝メフメト2世は、ヨーロッパ世界では「破壊者」「キリスト教最大の敵」「血にまみれた君主」と恐れられた。
そんなオスマン帝国がヨーロッパに攻め込んでウィーンを包囲する。
ウィーンは死守できたものの、ヨーロッパ人の記憶にはトルコという名の大きな脅威が刻まれた。
でも第二次ウィーン包囲での大勝利によって、「恐怖の大魔王」のイメージは崩れ去る。

16世紀後半以来徐々にではあるが衰退していたオスマン帝国のヨーロッパにおける軍事的優位を決定的に崩す事件となった。

第二次ウィーン包囲

 

ただ第一次と第二次ウィーン包囲の間、1571年にレパントの海戦があってスペイン、ヴェネツィア共和国、ジェノヴァ共和国などのヨーロッパ連合軍がオスマン帝国軍をぶちのめして、苦手意識は少しはなくなっていた。
それが「来た、見た、神は勝利した。」と言った瞬間、決定権なものになる。
実際これがターニングポイントとなって、ヨーロッパ世界は強大になっていき、オスマン・トルコ帝国はダメダメになっていって、もうヨーロッパを脅かすことはなくなった。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。