【トルコの歴史】イスラム教が“ゆるい”理由は革命にあり

 

グーグルに「トルコ イスラム教」と入力して検索すると、「割合、宗派、ゆるい、歴史」の4つの関連ワードが出てくる。
多くの日本人がこのコトに関心があるし、3日前は4月9日だったから、今回はトルコの「ゆるさの理由」を書いていこうと思う。

 

4月9日は1928年に、トルコがイスラム教と”サヨナラ”した日。
政府が特定の宗教を公式に認めて保護し、その教義にしたがって国の統治をおこなっている場合、その宗教は国教(国家宗教)になる。
かつてのローマ帝国にとってのキリスト教や、いまのサウジアラビアやパキスタンにとってのイスラム教がこれに当たる。
日本でいえば、最高法規である憲法がキリスト教やイスラム教の宗教法になっている感じだ。
まあこれ以上のくわしい情報は 国教 で確認してくれ。
そういえば明治時代にあった国家神道を日本の国教とみる人もいる。

20世紀のはじめ、第一次世界大戦に負けたオスマン帝国(トルコ)は国がガッタガタになって、「これじゃいかん!」と思ったケマルというオスマン帝国軍の将軍が立ち上がって革命を起こす。
1922年にオスマン帝国を倒したケマルは、翌23年に成立したトルコ共和国の初代大統領総となる。
国の英雄であるケマルは、「アタ(父)+テュルク(トルコ)」でケマル・アタテュルク(トルコの父)とも呼ばれている。

それまでの政教一致の体制ではダメだと考えた彼は宗教と政治を切り離し、トルコを世俗的な国家としてつくり直すことにした。
このへんのトルコ革命の背景は、「幕府が統治する体制では国の発展は望めない。下手したら欧米列強の植民地になる」と考えて、江戸時代を終わらせて明治維新を起こした日本とソックリ。
近代化のためにトルコはイスラム体制を、日本は幕藩体制をぶっつぶす。

ケマルが断行したトルコ共和国の「脱・宗教」の具体的な政策とはこんなもの。

・シャリーア(イスラムの宗教法)を廃止して憲法を制定した。
・イスラム学校(マドラサ)を閉鎖。
・イスラム教では許されている一夫多妻制を禁止。
・アラビア文字とヒジュラ暦を廃止して、それぞれ西洋のラテン文字とグレゴリオ暦を採用した。

そして宗教国家から世俗国家への転換を決定づけたのが、1928年4月9日にオスマン帝国時代に国教だったイスラム教を憲法で否定(削除)したこと。
といっても、急に全否定したら混乱が起こるのは必至。
それで政府はイスラム教を管理するために宗務庁を設立して、モスク(礼拝所)や聖書クルアーン(コーラン)の読み書きを教える学校を管轄下に置くことにした。

イスタンブールには現在、アヤソフィアという観光名所がある。
ここはもともとキリスト教の大聖堂だったところで、オスマン帝国がイスラム教のモスクに改築したあとは、皇帝がここで金曜の礼拝を行なっていた。
ケマルはこれを宗教色のない博物館にしてしまう。
トルコに関する雑誌やなんかで、アヤソフィアを「キリスト教とイスラム教の融合の象徴」と表現していることがあるけど、ケマルやオスマン皇帝がそんなシンボルと考えたことはないと思う。

 

アヤソフィアの内部

 

ケマルはオスマン帝国と同時に、政教一致の社会体制を崩壊させた。
そしてトルコを「脱イスラム」の国へと改革していった歴史があるから、いまのトルコは周辺のシリアやイラクなんかと比べると、ヒジャブをかぶる女性が少ないし確かにイスラム教が”ゆるい”。
でも、ムスリム(イスラム教徒)が人口の約98%を占めているから、イスラム教が社会に与える影響はいまでもすごくデカい。
幕府と一緒に幕藩体制と、それと武士も廃止した明治の日本とは違う。
だから日本のような”脱”を超えた、”無宗教の国”というワケではないのだ。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。