変れぬ中国③ 変法からの辛亥革命(中華民国:台湾の誕生)

 

はじめの一言

「この忠実な連中は、その疲れを知らぬ善良な性質と、ごまかしのない正直さと、親切で愉快な振る舞いによって、私たちの旅の疲れの慰めとなったのである(イザベラ・バード 明治時代)」「逝き日の面影 平凡社」

 

 

 

 

これは台湾のお札。

ここに、「中華民国八十九年」と書いてある。
この暦はなんだ?
いつから89年なんだ?

今回はこのことも書いていきますよ!

 

今回の内容

・中国をかえよう「変法」
・西太后がつぶす「戊戌の政変」
・皇帝をなくそう「辛亥革命」

 

・中国をかえよう「変法」

中国は秦の始皇帝以来、約2000年の間、一度も政治体制を変えたことはなかった。

ずっと、皇帝が支配するという「政治体制」が続いていたわけよ。
けれど、別の人間が皇帝になるという「政権交代」は、よく起きていた。
つまり、皇帝が替わるだけで、「皇帝が支配する」という政治体制そのものを変えたことはなかった。

 

ときは、19世紀の中国。
もう、そんなことを言っていられない!
中国が変らなかったら、ヨーロッパの国々にどんどん侵略されてしまう。
ということで、清朝の末期には、いよいよ、この「皇帝が支配する」という政治制度を変えようとする動きがでる。

 

その運動を、「変法(へんぽう)」という。

変法

「変法」とは王朝創設以来の政治のやり方をかえること。 日清戦争の敗北後、康有為らは洋務運動の限界性を批判し、西洋や日本の政治制度を手本とした立憲君主制の樹立を目指し、政治改革をおこなった。(世界史用語集 山川出版)

 

「立憲君主制」って、こんな政治体制。

 

憲法によりその権力の行使が制限された君主制。
(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

 

でも、でもでも、この政治改革(変法)は、失敗してしまう。
なんでか?

 

The_Ci-Xi_Imperial_Dowager_Empress_(5)

私が、つぶしちゃいました。by 西太后
ごめんね、ごめんねー。
(ウィキペディア)

 

・西太后がつぶす「戊戌の政変」

 

「西太后(せいたいこう)」がいたから。
西太后は、同治(どうち)帝という皇帝の母親。

同治帝の死後は、光緒帝の摂政として政治を左右した
(世界史用語集 山川出版)

 

ということで、事実上、当時の中国を支配していたのが、この西太后。
この西太后たちの大反対にあって、変法は失敗してしまう。

 

西太后は宮中に乗り込み無血クーデターにより政権を掌握し、変法派の主要メンバーを処刑、さらに光緒帝を拘束して中南海の瀛台(エイダイ)に幽閉し(ウィキペディア)

 

これが、世界史で習う「戊戌(ぼじゅつ)の政変」というもの。

変法は、立憲君主制をめざす運動だった。
「日本にように、憲法をもつ国になろう!」と中国人たちは、がんばった。
でも、立憲君主制というのは、「憲法により、その権力の行使が制限された君主制」というもの。 だから、憲法ができてしまうと、皇帝もその憲法に従わないといけなくなる。

 

明治天皇は、そうしたけどね。
憲法は、明治天皇より「上」にあった。
憲法がなくて、「皇帝がNO.1」という状態だと、絶対君主制という政治体制になる。

 

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宦官(かんがん)に担がれたみこしに乗る西太后(ウィキペディア)
憲法ができたら、こんなぜい沢な生活ができなくなるかも。

 

憲法は、中国の皇帝の力を殺して(弱めて)しまうから、自分たちの権力がなくなってしまう。 これに不満をもった西太后らは、この変法の動きをつぶしてしまう。
西太后は、国を「自分のもの」と思っていたのだ。
まさに、「朕は、国家なり」。

 

国のお金は、「自分のお金と同じ」という感覚で、どんどんつかってしまう。
それを象徴するのが、今の北京観光の目玉になっている「頤和園(いわんえん)」。
この中国を代表する庭園に、惜しみなくお金をつかってしまった。
これが、「日清戦争敗北の原因の1つとなったと言われる(ウィキペディア)」というほど。

まさに、国の「私物化」だ。

これは、現在の日本でも絶対に許されない。
前に東京都知事が、税金をつかって家族旅行をしたり、別荘に行っていたりしていた。こういう税金の「私物化」に対する庶民の怒りは大きい。

 

そりゃ、怒るわな。

 

ちなみに、変法の中心となった人物に、康有為(こうゆうい)と梁啓超(りょうけいちょう)いう人がいる。
高校の世界史だったら、必ず覚えないといけない重要人物。

実は、この康有為という人は、日本との関係がとても深いんだよ。

 

犬養毅や大隈重信、佐々友房、品川弥二郎、近衛篤麿、伊藤博文といった明治の著名人と親交を結んでいる。また須磨在住の際に知り合った日本人の女性を妻として迎えてもいる。日本とは因縁浅からぬ人物であったといえよう。(ウィキペディア)

 

そして、梁啓超という人はこんな言葉を残している。

今日の我をもて、昨日の我と戦う事を惜しまず

この決意をもっておこなったけれど、変法は失敗してしまった。

 

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現在の上海

 

・皇帝をなくそう「辛亥革命」

中国では、洋務運動も変法も失敗してしまった。
そして、中国はヨーロッパの「半植民地」状態になっている。
変わらないといけないけれど、このままでは変わることはできない。

 

この当時の中国人は、こう考えたらしい。

「もう、ダメだ。君主制(皇帝)がある限り、中国は変わることができない。中国は、ヨーロッパのものになってしまうかもしれない。中国を救うために、皇帝をなくそう」

そして、ついに孫文が辛亥革命(しんがいかくめい)を起こして、皇帝をなくしてしまう。

 

「辛亥革命」

・1911~1912 清朝を倒し、中華民国を樹立した革命

・12年1月、孫文を臨時大総統とする中華民国の建国が宣言され、2月、袁世凱の活動により清朝皇帝が退位した
(世界史用語集 山川出版)

 

それが、記事の上の写真の孫文さん。

秦の始皇帝が皇帝をなのったとき、中国の歴史に「皇帝」があらわれた。
それから約2000年間、君臨し続けてきたて皇帝という存在を、とうとう、中国から消し去ってしまった。

 

ここで、先ほどの台湾の話になる。
現在の台湾では、お札や新聞で、「民国紀元」という独自の年号をつかっている。
その年号は、この辛亥革命で清朝を倒した次の年を元年にしている。

 

民国紀元(みんこくきげん、正体字中国語:民國紀元・民國紀年)は、中華民国が成立した1912年を紀元(元年)とする紀年法である。中華民国暦(ちゅうかみんこくれき)、略して国暦ともいう。

西暦(キリスト紀元)との差は1911年で、民国年に1911を加えると西暦年となり、西暦年から1911を減ずると民国年となる。

(ウィキペディア)

 

このお札は、「中華民国八十九年」だから、2000年にできたもの。

 

偶然にも金日成の生年や明治天皇の没年・大正天皇の即位年が中華民国の成立年と同じ1912年であるため(ウィキペディア)

ということらしい。

 

台湾にあった韓国のガイドブック
使っている漢字が難しい~
「韓流」って言葉は、台湾の言葉。
日本がそれを輸入した。

 

中国人の友人からしたら、明治の日本が不思議にみえるという。
中国は、皇帝がいたままでは変わることができなかった。
洋務運動も変法も失敗してしまった。
そこで、とうとう、皇帝をなくしてしまった。
言いかえたら、もう、そこまでしないと中国は変わることができなかったのだという。

 

でも、日本では天皇がいたまま国内の改革をして、世界の列強とならぶ大国になっている。
これが、不思議だという。
この前書いた「源頼朝が幕府を開いたことが不思議だ」という中国人といい、日本の歴史には、中国人だからこそ、理解が難しいことがたくさんあるらしい。

 

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今まで、東南アジア、中東、西アフリカなど27の国・地域に旅をしてきました。以前、中学生に歴史を教えていた経験もあります。 また、日本にいる外国人の友人も多いので、彼らの目から見た日本も知っています。 そうした経験をいかして、日本や世界の歴史・文化・宗教などをテーマに、「読んでタメになる」ブログを目指しています。