【1392年】徳か血統か? 日本と韓国の歴史で決定的な違い

 

日本と韓国の歴史で「イザ国を始めよう」の1392年は、その前後で社会が激変した重要な年だからぜひ覚えておこう。

まずはわが国ジャパン。
日本の歴史には空に太陽が2つあるような、そんな異質な期間がつづく「南北朝時代」があった。
鎌倉幕府を崩壊させて、約150年ぶりに政治の権利を武家から取り戻した後醍醐天皇は、「ヒャッホーイ!」1333年に建武の新政を開始したと思ったら、地下アイドルグループ並みに3年で消えてしまう。
鎌倉幕府滅亡に貢献した足利高氏を気に入った後醍醐天皇は、自分の名前「尊治」から一字を与え、高氏は「足利尊氏」と名前を変える。
それほど仲の良かった後醍醐と尊氏はしだいに対立し、敵対していく。
そして尊氏は「もう後醍醐イラネ」と光明天皇を即位させて、北朝が爆誕する。

対して京都を脱出した後醍醐天皇は「認めん!オレは絶対認めんわっ」と吉野(いまの和歌山)へ移動する。
そして1337年、本物の三種の神器を持っているという理由から、光明天皇はフェイク、自分こそ正統な天皇であると宣言し南朝がうまれた。
これ以降、京都の朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が対立する南北朝時代が始まる。
価値観の違いからの分裂はアイドルグループでもよくあること。

天皇が2人存在して対立するというのは、日本にとってはあってはならない不自然な状態で、いろんな混乱を招来した。
それで両者が話し合って1392年に「明徳の和約」が結ばれ、約60年間つづいた南北朝の時代を終わらせることで合意する。
その年の11月19日、南朝の後亀山天皇が京都へ戻ってきて、北朝の後小松天皇に三種の神器を渡したことで、南北朝時代は完全終了。
南北が合一した新しい日本では、その立役者だった足利義満が室町幕府の全盛期を迎える。

 

「イザ国を始めよう」の1392年は、朝鮮半島では最後の王朝・朝鮮(李氏朝鮮)が成立した年でもある。
高麗(こうらい)を滅ぼした李成桂が恭譲(きょうじょう)王から王位を譲り受け、自分が国王になって新王朝の朝鮮をスタートさせる。
用済みとなった恭譲王は李成桂の命令で子供と一緒に殺された。高麗王室の一族も、乗っていた船を沈められて全員溺死。

もはや徳を失った人間は王や皇帝にふさわしくない。そんな王朝がつづけば人民の苦しみも長引くから、その王を殺して、別の人間がトップに立って新王朝を始めていい。
韓国や中国の歴史にはそんな「易姓革命」の考え方があった。
一方、日本ではこの革命理論がなく、「徳」よりも「血統」が重視されていたから、天皇を倒してまったく別の人間が天皇になることは一度もなかった。

「易姓革命」が日本に受け入れられていたら、足利尊氏はきっと光明天皇や北朝を誕生させていなかった。韓国や中国の歴史のように、後醍醐天皇を武力で倒し、皇族を皆殺しにして、自分が新天皇になって新しい時代を始めていた。
でも、天皇家の”血”を重視していた日本ではそれができない。
日本と韓国&中国の歴史においてこの違いは決定的だ。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。