「未亡人」というのはもともと「夫と共に死ぬべきであるのに、まだ死なない人」というヒドイ意味で、放送禁止となるのも当然の言葉だった。
ということを昨日の記事で書いたワケですよ。
「古代中国では夫が死ぬと妻も一緒に死ぬような、残酷な儀式があったのか?」と思って中国人にきいてみたら、西安にある秦の始皇帝(紀元前259年 – 紀元前210年)のお墓・兵馬俑に触れる人が何人かいた。
俑(よう)というのは「人形(ひとがた)」の意味で死者とともに埋葬した人形のこと。
秦の始皇帝の墓には臣下や兵士、軍馬などの俑が数えられないほど埋められた。
騎兵と軍馬の俑
これが中国人からもらったコメント。
・妃や女官まで生きたまま陪葬させた皇帝もいたが、歴史に悪名が残りました。結局代わりに物や人形を使う形になりました。兵馬俑だって人形でした。
・そうですね。死後の世界でも生前と同じように大勢な人たちを従えたいですね。
生身の人間を死なせる代わりに兵馬俑を一緒に埋めるのは先進的な発想かもしれませんが、兵馬俑の製造も大変なことですし、やはり多くの人をこき使ってできたものですから、残酷さはそんなに変わらないと思います。万里の長城も血と涙で築かれた傑作ですね。
苛政は虎よりも猛しってことかしらね。
いまから3000年以上前、中国最古の王朝といわれる殷(いん)では、王や貴族が死ぬと生前に仕えていた従者や侍女などを殺して一緒に埋める「殉葬」が行われていた。
でも時代が進むにつれ人々の意識も変わり、「いやいやいや。あまりに残酷でしょ。いい加減やめようよ」という声があがったのだろう、春秋戦国時代(紀元前770年 – 紀元前221年)のころにはこの風習はなくなっていき、代わりに人や動物、家や生活道具などを形どった「俑」を作って貴人の墓に埋めるようになる。
春秋戦国の大混乱の中国を統一した秦の時代になると、これが一般化して、兵馬俑の「頂点」と言うべき中国最大規模となる始皇帝のための兵馬俑がつくられた。
色を塗られた兵士の俑
人を殺害して一緒に埋めるという野蛮な風習から、人形を作って埋めるという発想への転換は中国人や人類にとって画期的な進化だ。
そんな話を聞くと三国志の英雄で、いまの日本人からも尊敬されるこの人物を思い出す。
蜀の軍師・諸葛孔明
あるとき孔明が戦いから蜀に戻る途中、荒れ狂った川に足止めされてしまう。
はん濫した川を鎮(しず)めるためには生贄となる人間の首を斬ってその頭を川に沈め、川の神に祈るという人身御供の儀式があると知った孔明は、その蛮習をやめさるために、人の頭の代わりにねった小麦粉の中に肉を詰めた物を川の神に捧げるよう提案した。
これがいまの饅頭の起源となったという説がある。
殉葬から兵馬俑への発展もこの話と通底している。
おまけ
西安にある兵馬俑
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兵馬俑と同じく、日本の「埴輪」も、古代の殉死の風習をなくすための代用品として使われたという学説があります。そのことは手塚治虫:火の鳥「ヤマト編」で紹介されています。
そのような学説が唱えられるようになったのは、たぶん、同時期の「騎馬民族渡来説」と関係があるのでしょう。中国本土の騎馬民族「兵馬俑」とよく似た形をしている埴輪も、日本の古墳では出土していますし。
秦の穆公が亡くなった時に重臣が大量に殉死してしまって国力がガタ落ちしたからね。毎回王が死ぬ度に一から立て直しなんてやってらないから身代わりとして人形を王の墓に埋葬したのがはじまりとされるし。野蛮がどうこうよりは実利的な理由かと。
尤も、表情がそれぞれ違うというクオリティはこの時代にもいい意味での馬鹿職人がいたかの証だけど。
そうなんです。
埴輪についてはひとつの記事として書こうと思っていたんですよ。
>秦の穆公が亡くなった時に重臣が大量に殉死してしまって国力がガタ落ちしたからね
この部分に興味があって調べたのですが、見当たりません。
どこで確認できるでしょう?
>kokontouzai様
紀元前621年、死去。この時に家臣177名が殉死した。主立った家臣たちが数多く殉死したことにより、秦の国力は大きく低下し、一時期、表舞台から遠ざかることとなる.(Wiki 穆公 (秦))
秦は穆公だけでなくそれ以前の王でも殉死者が少なからずいます。
確かにありました。
ウィキペディアは見たつもりですが、こちらの確認不足でした。
ありがとうございます。
まーそりゃ、生前に王様の妻女や側近であったのであればともかく、一度も顔を合わせたこともない一介の兵士・役人にまで「殉死」を強制されたのでは、たまったもんじゃない。
下手すりゃそれだけで反乱になりますよ。