はじめの一言
*伊勢神宮の建物について
「いわば稲田の作事小屋や農家の結晶であり、真の『神殿』すなわち国土とその大地の精髄(せいずい)の安置所なのである。国民はそれを国民の最高の象徴として崇拝する(ブルーノ・タウト 昭和)」
「ニッポン 講談社学術文庫」
今回の内容
・これが、空海だ!!
・西安旅行がおススメ
・これが、空海だ!!
今回も前回に引きつづき、遣唐使で最も有名な「空海」について、西安旅行の写真をまじえて書いていきたい。
空海といえば、忘れちゃいけないことがある。
ありえないほど字がうまい。
なんせ日本史では、「三筆」の一人としてその名を残している。
能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられている。(ウィキペディア)
これは万里の長城
そんな空海の字は長安でも絶賛された。
中国の皇帝から、宮殿に壁への揮毫(きごう:文字を書くこと)を依頼されたという話がある。
話というのは、唐の宮殿の皇帝の御在所近い一室、というのが、設定である。
そこに王羲之が書いた二間の壁がある。そのうちの一間が破損したため、修理され、この時期、壁が白いままになっていた。(空海の風景 司馬遼太郎)
王羲之(おうぎし)とは、世界史を習った人なら覚えているかも。
中国の歴史上、最高の書を書いたと言われる書家。
王羲之は、書の芸術性を確固たらしめた普遍的存在として、書聖と称される。後世の書人に及ぼした影響は絶大なものがある。
(ウィキペディア)
王羲之の書は奈良時代から日本人もお手本としてきた。
西安は餃子が有名
ただ、これは「そういう話がある」ということで、どこまで事実かは分からない。いくら空海の書が飛び抜けてうまかったとしても、王羲之の「代わり」になるというのは、ちょっと想像できない。
こに記事の一番上の写真にある文字は、空海が書いた本物の文字。
これは、京都御所の「紫宸殿」の入口の門。
「この文字は、空海が書いたものです」
と御所のガイドが言っていたから、本物に間違いない。
空海の真筆なんてめったにない。
これを見ただけでも、この記事を見る価値はあったはず!
さっきの話の真偽ははっきりしないけれど、空海が中国を去るときに皇帝が空海にこう言ったことは事実らしい。
朕は、この僧をとどめて自分の師にしようと思っていた。しかし、ひきとどめるわけにはゆかまい。この念珠をもって朕の形見であるとおもえ
(空海の風景 司馬遼太郎)
西安の城壁。
・西安旅行がおススメ
ボクはこの「空海の風景」好きで、3年前に西安に行ってきた。
そのときは日本から飛行機で中国に渡って、中国の高速鉄道(新幹線)で簡単・快適にたどり着くことができた。
平安時代とはまったく違う。
空海がこの都市で生活をしていたことを考えると、感無量。
他にも、秦の始皇帝の墓(兵馬俑)の迫力がすごい。
この兵馬俑を案内してくれた中国人の日本語ガイドさんが、こんなことを言っていた。
「武器を持っていない兵士がいますよね?あれは、項羽の軍が、ここに来たときに、兵士が持っていた武器を持って行ってしまったためです」
「えっ?項羽って『項羽と劉邦』の、あの項羽ですか?」
驚いて聞くと、
「ええ、そうです」
と、さらりと言う。
これがそうらしい。
ここに項羽の軍が入ってきた!!
項羽
秦末期の楚の武将。秦に対する造反軍の中核となり秦を滅ぼし、一時“西楚の覇王(在位紀元前206年 – 紀元前202年)と号した。その後、天下を劉邦と争い(楚漢戦争)、当初は圧倒的に優勢であったが人心を得ず、次第に劣勢となって敗死した。
「世界史用語集 (山川出版)」
「項羽」なんて、名前を聞いただけでも震えてしまう。
「項羽と劉邦」の話は韓国でも人気があって、韓国人の友人も「四面楚歌」の場面が大好きで涙がでると話していた。
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西安には、たくさんのイスラーム教徒が住んでいる。
これは、西安にあるモスク(イスラーム礼拝所)。
でも、建物からはまったくイスラーム教の雰囲気がない。
中国風になっている。
イスラームと中国の融合は、興味深い。
大雁塔(だいがんとう)
玄奘(げんじょう)がこの塔にこもって、仏典を中国語訳していた。
玄奘は、西遊記の三蔵法師のモデルになった仏教僧。
ボクにとっては、旅の面白さは「発見」にある。
その意味では、西安はおススメですよ。
でも、古都「長安」の雰囲気はあんまり期待できないかな。
それを求めるなら、京都のほうがいい。
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