始めの一言
「日本の耕作を眺めるのは、大工や漆職人等の仕事を見るのと決して劣らぬ楽しみである。ヨーロッパ人の眼にとっては、田畑にさえ一本の雑草をも見ないということは、まったく驚嘆すべきことなのである(タウト 昭和)」
「ニッポン 講談社学術文庫」
今回の内容
・日本=ケンシロウ説
・律令国家の完成
・こんな遣唐使、知ってました?
・「日本=ケンシロウ」説
北斗の拳のケンシロウの強さは、「学習能力」にある。
自分より強い人間と戦うという経験をくり返すことで、自分も強くなるという「学習能力」の高さがその強さの理由。
そんな北斗神拳の奥義には「水影心(すいえいしん)」というものがある。
これは、一度戦った相手の技を身につけて自分のものにするというもの。
これも、優れた学習能力をあらわしている。
日本の「強さ」の理由も、このケンシロウの強さの理由と同じ。
「相手の良さを身につけて、自分のものにする恐るべき学習能力」
よって、ここに「日本=ケンシロウ説」が成立する。
たぶんね。
歴史上、日本の学習能力の高さをしめしたことは2つある。
1つ目は、奈良・平安時代に、中国に学んで国を発展させ、律令国家にしたこと。
2つ目は、明治時代は、西洋に学んで富国強兵を成功させ、近代国家(立憲国家)にしたこと。
2つとも、北斗神拳の奥義「水影心(すいえいしん)」のように、相手の良いところを自分のものにしている。
・律令国家の完成
前々回、日本人はその優れた学習能力で、中国(唐)の都「長安」をモデルに京都をつくったということを書いた。
唐 618~907
・隋を滅ぼして李淵(りえん)が建てた王朝。
都は長安。律令制・均田制・租庸調制を確立。・領域を拡大して東アジアに唐文化圏を形成したが、内乱の後、朱全忠(しゅぜんちゅう)に滅ぼされた。
(日本史用語集 山川出版)
でも、「相手の良さを身につけて、自分のものにする恐るべき学習能力」ということからいえば、京都をつくったことより、日本を「律令国家」にしたことの方が大切。
律令国家
律令と格式という法令によって運営される国家。日本では天皇を中心とする中央集権的官僚制の国家体制(律令制度)が7世紀後半~9世紀頃に機能した。
(日本史用語集 山川出版)
日本は、701年に成立した「大宝律令(たいほうりつりょう)」という法令によって、律令国家になっている。
律令国家になることで、「法による統治」が行われるようになった。
これは、日本史において画期的なこと。
ちなみに、この大宝律令のときに日本に生まれたのが「大蔵省」という部署。
この大蔵省は、現在の財務省に変わるまで、約1300年間日本にあったことになる。
「大宝律令」は、唐の律令「永徽律令(えいきりつりょう)」を手本として日本人がつくったもの。
京都は長安を手本とし、大宝律令は永徽律令を手本としてつくられている。
ただ、日本が「律令国家となった」といっても、もちろんそれは「唐に追いついた」ということではない。
奈良、平安朝日本を律令国家とよぶことは、ただそれだけならばべつに異議を挟む余地はない。
しかしつぎにその名目によって、両者を同様な発達段階にならべて置こうとするなら、これは大きな見当ちがいだといわざるをえない。(大唐帝国 宮崎定一)
唐と日本とでは、国力も発展のレベルもあまりに違う。
唐に比べたら、日本は「初歩段階」の律令国家だったと思う。
もともと、唐が律令国家になったのには、それまでの長い歴史がある。
まず刑法である律の制定が戦国時代の秦の商鞅の改革に始まり、中国を統一した秦の始皇帝が法家の李斯を登用して法治国家の理念を具体化した。
漢帝国でも基本的には継承され、律に続いて国家行政の規則である令もつくられるようになった。
三国時代の魏や、南北朝時代の北魏などの北朝で発達し、統一を回復した隋において、律令という形で定着した。
次の唐では律令・格式の法体系が出来上がり、政治機構から社会経済、刑罰に至る法体系によって国家が運用される律令国家が出現した。
「秦の商鞅(しょうおう)」といったら、紀元前4世紀の人物ではないか。
そこから始まったとすると、唐の律令国家成立までには、およそ1000年かかったことになる。
後進国だった日本が、遣隋使や遣唐使を派遣して唐に学んだだけで、唐に追いつけるはずがない。
でも、唐には及ばないとしても、唐令を手本にして大宝律令を制定し、日本を律令国家にしたというのは、日本人の学習能力の高さを物語っていると思う。
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