イギリスに抵抗するインドの歴史を、日本と比較してみてみよう

 

このまえ浜松市内を車で走っていたら、むかし「ダイエー」というスーパーがあったところを通り過ぎた。
子どものころ、親に連れて行ってもらうことを楽しみにしていたのを思い出す。
ということで話は大英帝国だ。
正確にいうと、大英帝国に植民地支配されていたインドのこと。

いま日本で公開されているインド映画の『RRR』の舞台がその時代で、高速ダンスや派手なアクションが日本人にうけて、インド映画としては過去最大のヒットになっている。
この3つの「R」はRise(蜂起)・Roar(咆哮)・Revolt(反乱)のことで、イギリス支配に対するインド人の見方が表れている。
そう聞くと、あくどいイギリス人に正義のインド人が立ち向かうという、単純な展開を想像してしまうかもしれないが、おおむねそのとおりだ。

村の少女をイギリス軍にさらわれたと知って、怒りに震えるマッチョなインド人男性がイギリス側と戦って少女を救出しようする物語だから、ボクは見てないからハッキリ言えないけど、内容としてはいくつも張った伏線を丁寧に回収していくものではないだろう。
でも、インド映画らしい高速ダンスや派手なアクション満載で、3時間見ても飽きないらしい。
この影響から日本人のお客さんが来てくれるようになって、インド関連のお店もニッコリ。

 

 

『RRR』がきっかけでインドの歴史や文化に興味を持った日本人もいるというから、せっかくなんでこのウェーブに乗ってみようと思う。
今回はイギリス支配に対するインド人の抵抗の歴史を、同時代の日本と比較しながら書いていこう。

まずは19世紀の中ごろ、西洋列強が近づいてきたころの日本だ。
1840年に始まったアヘン戦争で、イギリスにフルボッコにされた中国(清)は多額の賠償金を支払うことになって香港まで奪われた。
これに衝撃を受けた江戸幕府は、欧米との武力対決はできるだけ避けるべきと考える。
そんな国際的な圧力が高まるなかアメリカからペリーがやってきて、「開国プリーズ」と要求された日本は1854年に日米和親条約を結んで、200年ほど続いた鎖国が終わった。
ただこれは、下田と箱館の2港を開いて外国船を受け入れるが、通商(貿易)は拒否するという内容で、58年に結んだ日米修好通商条約から日米の間で貿易がハジマタ。
つまり、和親条約によって鎖国が形の上(名目上)では終わって、通商条約によって実質的に終わったとみていい。

次はインドをみてみよう。
アヘン戦争の原因となったアヘンはイギリスがインド人に作らせていたものだから、この戦争は間接的にはインドも関わっていたのだ。というか巻き込まれた。
アヘン戦争とその後のアロー戦争(1856~60年)に勝利して、中国での権限をさらに拡大させてパワフリャーになった大英帝国の支配に、インド人が耐えきれなくなった。
ブチ切れたインド人が Rise(蜂起)して、1858年に大規模な Revolt(反乱)を起こす。
日本の歴史の授業では、ちょっと前はこれを「シパーヒーの乱」や「セポイの反乱」といっていたが、いまの教科書では「インド大反乱」が一般的だ。
ただ「反乱」というのは支配する側の、上から目線の表現だから、インドでは「第一次インド独立戦争」と呼ばれている。
豊臣秀吉の朝鮮出兵を韓国では朝鮮侵略というように、国によって言い方が変わることは世界の歴史あるあるだ。

 

自分たちに逆らった人間をイギリスは許さない。
見せしめとして反乱軍のインド兵士を大砲に固定し、弾丸をぶっ放してインド人の体を血と無数の肉片に変えた。

 

このインド大反乱で今度はイギリスがキレた。
皇帝を強制的に退位させてムガール帝国を滅ぼした後、「イギリス領インド帝国 」が1858年に成立して、以前から部分的に支配されていたインドは、これによって完全にイギリスの植民地となる。
1877年にヴィクトリア女王がインド皇帝をかねてから、イギリス国王がインドでは皇帝として君臨していた。

そんな不幸続きのインドには大変申し訳ないのだけど、日本は独立を守り続けることに成功しただけじゃない。
開国後に近代化を進めてアジア初の近代国家となり、第一次世界大戦後には、アメリカやイギリスと並ぶ「世界五大国」の一角を占めるようになった。
国際社会での立場としては、大英帝国と同じサイドに立ったことになる。

日本が世界のビッグ5の1つになったのは、1919年にヴェルサイユ条約(第一次世界大戦の講和条約)が結ばれてからで、『RRR』の舞台は翌年の1920年だ。
なんでこの年が選ばれたのか?
知人のインド人に聞くと、祖父母のどっちかがパンジャーブ出身の彼は「それはだね」と1919年の「アムリットサルの虐殺」を挙げる。
このころイギリスに対するインド人の抵抗運動が活発化していて、それに手を焼いたイギリス植民地政府は気に入らないインド人を令状なしで逮捕し、裁判なしで牢屋にぶち込む「ローラット法」を1919年に出した。
するとパンジャーブ地方のアムリットサル市で、これに怒った女性や子供を含む民衆が集まって抗議の声を上げる。
この Roar(咆哮)に、イギリス軍は無差別射撃を行って多くの人を虐殺した。
このアムリットサル事件で(正確な数は不明だが)約1200人の死者と、約3600人の負傷者が出たといわれる。

歴史に「タラレバ定食」はないが、もし幕末の日本で幕府が江戸城に立てこもって、新政府軍と徹底的に戦って国内が疲弊していたら、もし日露戦争でロシアに負けていたら、日本は外国の植民地になってこんな不幸な歴史があったのかもしれない。
ご先祖さまはあの困難な時代に本当によくやってくれた。

 

現在のアムリットサル市には虐殺を伝える施設がある。

 

「撃て」と命じるイギリス人の上官の目は、来場者によってつぶされていた。

 

逃げまどう市民。

 

 

現場はこんな壁に囲まれていて、ところどころ銃弾の痕が残っている。

 

 

この事件にインド人は恐怖したが、ひるんだり黙ったりすることはなかった。
ただ強大で無慈悲なイギリスに、武力による抵抗はむずかしいことは分かったから、それがガンディーの非暴力・不服従運動につながっていく。
知人が言うには、この大虐殺を知らないインド人はいない。
だから、ただでさえあくどいこの時代のイギリス軍を取り上げて、少女をさらうという憎まれ要素を盛り込んだ上で、正義のインド人がイギリス軍と戦うというストーリーには国民として心が燃える。

日本には移民族に完全に支配された歴史が無いから、こういう抵抗の物語を歴史として描くことはできない。
舞台が戦争でも、日本人はよく萌えるキャラや内容にしてしまうところがインド人とは大違い。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。