勝利を意味する英語の「ヴィクトリー」は、ローマ神話に登場する勝利の女神「ヴィクトリア」に由来する。
これがギリシア神話だと「ニケ」になる。
1838年のきょう6月28日に、その女神の名を持つイギリスの女王ヴィクトリアの戴冠式が行われた。
ちなみにギリシア神話の「ニケ(Nike)」の英語読みが「ナイキ」だから、ヴィクトリア女王と語源は同じになる。
この女王が君臨していた約63年間(1837年~1901年)に、イギリスはその歴史上、最も輝く黄金期を迎えた。
国内は政治的に安定していたし、産業革命が起きて経済はうなぎ登りで、ディケンズやオスカー・ワイルドなどすぐれた作家の才能が開花して文化も成熟していく。
全方向でうまくいっていて、イギリス史における特別な期間だったから、この女王の時代を「ヴィクトリア朝」と呼ぶ。
ロンドンに「切り裂きジャック」が現れたり、イギリス人のソウルフードが生まれたのもこの時代だ。
ただ、ヴィクトリア女王はハノーヴァー朝の第6代王だったという点に注意を要する。
高校で世界史を学んだころ、「ヴィクトリア朝」という数世代にわたる王朝があるのかとカン違いして混乱しますた。
4歳のころのラブリーなヴィクトリア
戴冠式で王者のオーラを放つヴィクトリア
リアルのヴィクトリア女王
この勝利の女神やイギリスの栄光は、自分たちの力だけで達成したワケではない。
むしろ他力本願。
このすさまじい富や力の源泉は、イギリスが大英帝国として世界各地を植民地支配していたことにある。
アフリカ・インド・東南アジアなどで現地住民を働かせて税金をしぼり取り、ダイアモンドなどの貴重な鉱石を一方的に奪っていたから、世界的な帝国になることができたのだ。
だから、ヴィクトリア朝のイギリスは世界各地で戦争しまくり。
南アフリカではボーア戦争、中国とはアヘン戦争を戦い、ガーナ、インド、エジプトでは反乱を強大な武力で鎮圧し、インドではムガル帝国を滅ぼしたあとヴィクトリアがインド皇帝になって直接支配した。
インドの女帝(Empress of India)と言われたヴィクトリアは、
「巨大な帝国に対して直接責任を負う事に大きな満足感と誇りを覚える」
とうれしそうに言う。
ヴィクトリア時代の闇がこちら。
彼女の置き土産はいまも世界中にある。
ヴィクトリア島(カナダ)、ヴィクトリア湖(ケニア・ウガンダ・タンザニア)、ヴィクトリア滝(ジンバブエ・ザンビア)、ヴィクトリア・ハーバー(香港)、ヴィクトリアランド(南極大陸)、それに世界各地のヴィクトリアという都市名に彼女の名が刻まれている。
カナダの首都オワタ、ではなくてオタワを選んだのもヴィクトリア女王だ。
彼女が目をつぶったまま地図にピンを刺した場所がオタワだったから、そこが首都になったという。
ヴィクトリア・レベルになると「ダーツの旅」もここまで規模がデカくなる。
東インドの都市コルカタに行ったとき、この女王の輝きの一端に触れることができた。
15年かけて造られたヴィクトリア記念堂は、あの時代を象徴する大モニュメント。
現在は博物館になっているこの巨大な大理石の建物は、もとはインドの女帝でもあったヴィクトリア女王を記念するためのもので、王室に捧げられた世界最大の記念碑でもある。
有力者の邸宅ではなくて、これはただの記念碑でしかない。
日本が外国の植民地になり、天皇家を滅ぼされたうえで、異民族の支配者にこんな巨大建築物を建てられたとしたら、日本人はどう思うか。
最近、コルカタ出身のインド人と話す機会があったんで、支配された側の人たちは、ヴィクトリア時代のイギリスについてどう見ているのかたずねてみた。
すると、
「ボクたちにとっては屈辱の時代だよ。独立戦争(インド大反乱)では多くのインド人が残酷に殺されたし、イギリスの人種差別的な政策で、カルカッタのあたりでは何百万人も餓死したからね。(ベンガル飢饉)」
といった「ですよねー」的な反応が返ってくるかと思ったら、全然ちがった。
「君はカルカッタへ行ったんだよね?じゃあヴィクトリア記念堂を見たか?あの建物は本当にすばらしい!ボクたち市民の自慢だよ」
と目を輝かせて言うから、「あれっ?」と。
植民地支配でイギリスが行った搾取や虐殺、人工的な飢餓について聞くと、彼はこんな話をする。
「それはとても不幸で悲しいことだよ。思い出すと怒りがこみ上げてくる。イギリスは植民地支配に対する謝罪や賠償を一度もしてないから、それを求める気持ちがなくもない。でもそれは過去の歴史で、いまのイギリス人がしたことじゃない。それに、ヴィクトリア記念堂のおかげでたくさんの旅行者がやってきて、カルカッタに大きな利益を与えている。いまあれはインドの大切な財産だよ」
ボクがコルカタでヴィクトリア記念堂を見たときは、インド人はあれを搾取や屈辱の象徴と思っていて、宮殿のような白くて美しい建物を見ることで、あの辛く苦しい時代を忘れないようにしているのだと思った。
だから破壊しないで、建物を保存して公開している。
そんな「負の遺産」のように考えていたから、彼のうれしそうな顔と話はまったく予想外。
それに、「カルカッタ」は植民地時代にイギリス人がつけた都市名で、インド人は独立後に「コルカタ」と改名したのに、このインド人はカルカッタを使っていた。
この点からみても、彼があの時代を憎悪しているとは思えない。
このときはバングラデシュ人も一緒にいた。
バングラデシュもヴィクトリア時代には、インドの一部としてイギリスの支配下にあったから、彼の意見も聞いてみると、こんな話をする。
植民地だったころは多くの人が苦しんでいた。
でも自分の出身地には、「ヴィクトリア・アカデミー」という女王にちなんで建てられた学校があって、住民はいまもそれには感謝している。教育の機会をくれたことは、イギリス支配の良いところ。
ヴィクトリア女王は全世界の臣民をまとめるために、「帝国の母」や「慈愛」のイメージをアピールしたから、この学校もそのキャンペーンのひとつかも。
ということで、今回聞いたインド人とバングラデシュ人の話をまとめるとこんな感じになる。
どの部分を見るかで、植民地時代の評価や印象は大きく変わる。
植民地支配は全体的には否定されるべきものだけど、全否定するのは視野が狭い。
「現在」に着目すれば、その時代の遺物は役に立っているし、最も重要なことは未来、これからのインドの発展やイギリスとの友好関係だ。
理想的な未来を規定してから、それに沿って過去を解釈してもいい。
日本とイギリスの季節(四季)の違いや特徴。あること・ないこと。
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