イギリスがボーア戦争でしたことは、控えめに言って鬼畜

 

イギリス人の船長が多くの日本人乗客を見殺しにしたと考えて、日本中が「残忍非道の船長」と激怒した「ノルマントン号事件」が1886年に起こる。
くわしいことはこの記事を。

「100:0」の日本人差別、ノルマントン号事件に国民激怒

日本にいる4人のイギリス人に話すと、全員この事件は初耳でこんなことを言いやがります。

「自分と同時代のイギリス人が日本でそんなことをしたら、申し訳なく思うだろうね。でも、それは100年以上も前のことだから、ああそんなことがあったのかと。そのころのイギリスは世界中で悪いことをしていたよ」

ノルマントン号事件がイギリスで知られているか知りたかっただけで、別に彼らに謝罪や反省を求めていたワケじゃないけど、「罪悪感?なんで」というレベルの無関係は予想外だった。

そんなふうに過去と現在を完全に切り離していた彼らが、「でもあれはひどかった。心が痛む」と反省するようなことを言ったのは、かつてイギリス人が南アフリカでしたズールー戦争とボーア戦争のこと。
前者はこのまえ書いたので、今回はボーア戦争を紹介しよう。

【イギリス人も反省】南アフリカでの蛮行:ズールー戦争

 

 

はじめに南アフリカに勢力を築いたのは「ボーア人」と呼ばれる、オランダ系を主体とする白人。
1652年にオランダ人のヤン・ファン・リーベックらが、植民地だったインドネシア(オランダ領東インド)や貿易をしていた日本への補給港をつくるため、アフリカ南部(いまの南アフリカ)にケープタウンを建設してケープ植民地とした。
*上の絵はヤン・ファン・リーベックたちがケープに上陸したところ。

ヨーロッパ諸国の移民がケープのオランダ入植者に合流して、ボーア人という民族集団が形成されていく。
オランダ語で「農民」を表すブール(Boer)の英語読みがボーア。
彼らはいまでは「アフリカーナー」と呼ばれることが多いんだが、日本では「ボーア戦争」が一般的だからここではこの呼び方を使うことにする。

 

ボーア人(ブール人、アフリカーナー)は白人でアフリカ原住民とは違う。

 

でも、1812年にケープ植民地がイギリスの植民地になると、ボーア人の世界は一変した。
イギリス本国から多くの移民がやってきて、支配階級にあった彼らは、英語のできないボーア人に二級国民のような侮辱的な扱いをする。
といってもそんなボーア人も以前は、アフリカ原住民のコイコイ人や奴隷を人権無視でいいように使っていたから盛者必衰&栄枯盛衰かなと。

それでボーア人はエラそうなイギリス人の支配を嫌って北部へ移動し、新しい天地で新しい生活を始めるようになる。
このボーアの人の民族移動を「グレート・トレック」という。
この結果、(下の地図で)黄色のナタール共和国、朱色のオレンジ自由国、サーモンピンク(か?)のトランスヴァール共和国が建国された。
オレンジ川より北に建国されたのがオレンジ自由国、さらにその北にあるヴァール川を越え(トランス)、建国されたのがトランスヴァール共和国だ。

 

グレート・トレックの後にボーア人がつくった国

 

このうちナタール共和国(黄色)は、1843年にイギリスとの戦いに敗れて併合されて消滅。
オレンジ自由国とトランスヴァール共和国はイギリスから自治を認められたから、ボーア人によるボーア人のための政治や生活はできていた。
でも、そんな日々は続かなかった。
トランスヴァールで金鉱が、オレンジ自由国ではダイヤモンド鉱山が発見されると、状況は一転、イギリスはオレンジ自由国を領有化してダイヤモンド鉱山を自分たちのものにする。
もう「紳士」と書いて「とうぞく」と読んでいい。

*このダイヤモンド鉱山をもとに、後にケープ植民地首相となるセシルローズがダイアモンド会社の「デ・ビアス」(De Beers)を設立した。

さらにイギリスはトランスヴァール共和国の併合を宣言するが、それに屈しないボーア人は大英帝国に宣戦布告を行い、1880年に第一次ボーア戦争がぼっ発する。
ボーア人はこの戦いに勝って翌1881年、イギリスにトランスヴァール共和国の独立を認めさせた。
一方、戦争に負けて名誉を失ったイギリスは面目丸つぶれとなった。

イギリスが決定的に敗北して、不利な条件で講和条約を結んだのはアメリカ独立戦争以来のことらしい。

The First Boer War was the first conflict since the American War of Independence in which the British had been decisively defeated and forced to sign a peace treaty under unfavourable terms.

First Boer War

 

しかしこれは、ズールー戦争での悪夢を予感させるではないか。
ズールー族がイサンドルワナの戦いでイギリス軍を撃破すると、その後の戦いで、イギリスはズールー族の戦士を皆殺しにして恨みを晴らした。
第一次ボーア戦争での勝利はボーア人の不幸フラグとなる。

イギリスはトランスヴァール共和国を手に入れるため、第二次ボーア戦争(1899年~1902年)をおっぱじめる。
このときトランスヴァール共和国はオレンジ自由国とタッグを組んでイギリスと戦うも、負けて両国はイギリス植民地となった。
そしてカナダ連邦をモデルに1910年、ケープ・ナタール・トランスヴァール・オレンジ自由国の4州を統合して「南アフリカ連邦」が完成する。

金鉱やダイヤモンド鉱山の他にも、イギリスはケープとカイロを結ぶ「アフリカ縦断政策」の実現を考えていたから、オレンジ・トランスヴァールはいずれイギリスに侵略・併合される運命だったのだ。

 

第二次ボーア戦争ではボーア人の神出鬼没的なゲリラ作戦に、イギリス軍は本当にガチでマジで手を焼き、苦しめられた。
そこでゲリラ兵に食料や燃料などの物資が渡らないように、イギリス軍は多くの民家や農場を破壊して焼く。イギリス兵が通り過ぎた後には焼け跡しか残らないような、この焦土作戦でボーア人ゲリラを追い込んでいく。

 

身の回りのものを集める時間として住民に10分だけ与えると、そのあとイギリス軍は容赦なく家に火を放った。

 

イギリスの「焦土作戦(Scorched Earth)」によって、農作物は破壊され家畜は殺されて、家や農場も焼き払われたため、何万人もの女性や子供が強制収容所(concentration camps)に入れられることとなる。

As Boer farms were destroyed by the British under their “Scorched Earth” policy—including the systematic destruction of crops and slaughtering of livestock, the burning down of homesteads and farms —to prevent the Boers from resupplying from a home base, many tens of thousands of women and children were forcibly moved into the concentration camps.

Second Boer War

強制収容所に収容される女性や子供

 

収容所で亡くなった7歳の少女・エリザベス
この写真はイギリス社会を揺るがせた。

 

いまでいう「強制収容所」が世界で初めて登場したのは、この第二次ボーア戦争のときだ。
そこで提供される食べ物はわずかで多くの人が栄養失調になり、不衛生な環境から、腸チフスや赤痢などの伝染病やが発生して体力のない人たちが次々と死んでいく。
このイギリスの強制収容所では、26,370人の女性や子供が死亡した。(26,370 Boer women and children died in concentration camps)
ほかに2万人以上のアフリカ人も収容所で亡くなったという。
これが英国紳士のもう一つの顔。

ナチス=ドイツはこれをモデルにして、ユダヤ人を虐殺した強制収容所を建設した。
作家の福田和也氏は「じつはナチスの強制収容所というのは、このボーア戦争の収容所をヒントに作られています(新・世界地図  光文社)」と書いている。

 

先祖が過去に行った蛮行については基本関係ないというイギリス人も、ここまでのスケールになると「あれはひどかった。心が痛むよ」となるらしい。
ノルマントン号事件もズールー戦争もボーア戦争も、すべて19世紀後半の同じころに起きている。
この2つの戦争に比べたら、日本人には大事件でもノルマントン号事件はかすんでしまう。現在のイギリス人が、過去に世界中でした蛮行や悪事をいちいち覚えてないのも仕方ない。

ちなみに旧トランスヴァール共和国にあるダイヤモンドの鉱山からは、1905年に史上最大のダイヤモンド原石「カリナン (The Cullinan) 」が発見された。
これは現在、イギリス王室か王族が所有している。

 

第二次ボーア戦争と強制収容所

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。