「100:0」の日本人差別、ノルマントン号事件に国民激怒

 

いまの日本で10月24日は、問答無用で10・2・4を「てにし あわせ」(手に幸せ)と読んで「文鳥の日」になっている。
でも、そんなほのぼのデーとは真逆で、全国民を激怒させる「ノルマントン号事件」が起こったのは、明治時代の1886年のこの日だった。

1886年(明治19年)10月24日の夜8時ごろ、日本人乗客を乗せたノルマントン号が和歌山県の沖合いで沈没。
イギリス人船長のドレーク船長やドイツ人らは救命ボートで脱出し、漁村の人たちに救助&保護される。
でもその後、西洋人はすべて助かった一方、20人以上いた日本人乗客の中で生存者は1人もいないことが分かった。
「100:0」の比率はどう見ても不自然。
それで伊藤博文内閣の外務大臣・井上馨(かおる)が「日本人全員死亡」の調査を命じる。
当時の日本のマスコミは、「西洋人乗客なら助けたのに日本人なるがゆえに助けなかったのではないか」と報じ、世論はこれは西洋人の人種差別であり、日本人は見殺しにされたと考え激怒した。

このときは日本国内で起きた事件でも、外国人は外国の法で裁く治外法権が認められていたから、日本の調査はうまくいかず、船長や水夫への裁判もイギリス人によってイギリス領事館の中で行われた。
この裁判で水夫長のウィリアムはこんな証言をする。

「船員は日本人をボートに乗り移させようと努力したし、自分も勧めたけど日本人はそれを拒否した。なぜ日本人がこれを拒んだのか、自分には理由が分からない」

こんなわけのわからない話が認められて、裁判では全員に無罪が言い渡された。
(船長や船員は最初からこれを予想できていたから、日本人を救助しなかったのかも。)

普通なら船長や乗組員には乗客を助ける義務があるのに、この場合は逆で、西洋人の船長らが日本人を船倉に閉じ込めたという話が持ち上がった。
それで、船体を引き上げて事実を確認しようとする流れもあったけど、大国であるイギリスを不快にさせたくなかったのか、この案は立ち消えとなる。

このあともう一度行われた裁判で、イギリス人の船長が禁固3か月の有罪となっただけで、日本人乗客への賠償金はなし。
一言でいえば、日本人は完っ全に舐められていたということだ。

 

「媚態外交」「弱腰外交」と叩かれた日本の初代外務大臣・井上馨

 

沈みゆく船の中で日本人が救助を拒否して、なぜか船内に閉じこもって全員死んだ。
そんなイギリス人の話は大ウソ、人種差別によって乗客は間接的に殺されたとみてまず間違いない。
このとき国民の間で流行った「ノルマントン号沈没の歌」には、そんな悲しみや怒りが込められている。

「岸うつ波の音高く 夜半の嵐に夢さめて 青海原を眺めつつ わが同胞はいづくぞと
呼べど叫べど声はなく 尋ねど探せど影もなし 噂にきけば 過ぐる日に 二十五人の同胞は」

と同胞(はらから)である日本人乗客の無念に思いを寄せ、”見殺し”にした西洋人をこう非難。

「外国船の情けなや 残忍非道の船長は 名さえ卑怯の奴隷鬼は 人の哀れを外に見て
己が職務を打忘れ 早や臆病の逃げ支度 その同胞を引きつれて バッテラへと乗り移る
影を見送る同胞は 無念の涙やるせなく あふるる涙を押し拭い ヤオレにくき奴隷鬼よ
いかに人種は違うとも いかに情を知らぬとも この場に望みて我々を すてて逃るは卑怯者」

あまりにも弱腰の日本政府に怒り心頭に発し、爆弾をもって上京してきた人(壮士)もいたという。
でもこれもすべては、日本が西洋諸国の治外法権を認めていたからだ。
こうした日本・イギリス間の不平等条約は、ノルマントン号事件の8年後の1894年、日英通商航海条約締結によって撤廃され、領事裁判権もなくなった。
明治の日本は欧米列強の植民地にはならなかったものの、多くの屈辱や怒りに耐えないといけなかったのだ。

 

 

こちらの記事もいかがですか?

【困った人たち】平成と明治の日本語を読めない日本人

【明治の日本人】在日外国人が見た「たくましさと思いやり」

新幹線の始まり「あじあ号」、明治(満州鉄道)から平成(JR)へ

明治の文明開化についていけません!ポストや電線を見た日本人の反応は?

日本はどんな国? 在日外国人から見たいろんな日本 「目次」

読めない!日本人のアナウンサーや首相が間違えた難漢字!?

 

コメントを残す

ABOUTこの記事をかいた人

今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。