全日本人が怒った「ノルマントン号事件」が起こったのは、明治時代の1886年のこと。
多くの乗客を乗せたノルマントン号が和歌山県の沖合いで沈没し、西洋人は全員助かったのに、20人以上いた日本人はすべて死亡。
イギリス人船長が見殺しにしたに違いない!と考え、「残忍非道の船長」と日本中が激怒した。
くわしいことはこの記事を。
この出来事について数年前、日本にいる4人のイギリス人に聞いてみると、全員が初耳でビックリする。
「イギリス人が日本人を見殺しにしたのか。それはとても申し訳ない…」
なんてセンチメンタルな展開になるワケはなく、
「あのころイギリスは世界中に領土を持っていて、差別とか虐殺とか悪いことをしまくっていた。数年前にイギリス人が日本人にそんなことをしたら、それは申し訳なく思うだろうね。でも、100年以上前のことだから。あの時代のイギリス人のやりそうなことだよ。」
と、特に罪悪感は特にない様子。
過去と現在を完全に切り離していたそんな彼らが、「でも、あれはひどかった。あれには心が痛む」と反省するようなことを言ったのは、かつてご先祖が南アフリカで行った“蛮行”だった。
具体的にいうとズールーとボーアの2つの戦争のことで、今回は前者のついて書いていこう。
1921年の大英帝国の領土
19~20世紀のイギリスが世界中でした、ヒドイコトを数えていったらキリがない。
南アフリカにいたズールー族の出身で、ズールー王国を建国して初代国王となった人物は日本人にはとても覚えやすい。
彼の名前は「シャカ」(1787年 – 1828年)という。
もちろん仏教の開祖とはまったく関係はなく、それどころかこっちのシャカは数千人を虐殺するとか一片の慈悲もない。
で、ズールー王国の最後の王が下のセテワヨ・カムパンデ(1826年 – 1884年)だ。
「安心してください、はいてますよ」
1879年にイギリス側は国王セテワヨに、ズールー軍の解散など絶対にのめない要求をして、セテワヨが期限までに回答しないことを理由に戦争を仕掛けた。
といっても、槍(やり)と盾で武装したズールー軍が、近代兵器を備える大英帝国軍に勝てるはずもなく、戦闘は一方的なものとなる。
と、このときイギリス人は思ったのでは?
でも実際にはイサンドルワナの戦いで、ズールー軍が約800人のイギリス兵を戦死させる大勝利を収めてしまった。
まさに南アのジャイキリ。
これに驚いたイギリスは大英帝国の名誉と威信を守るため、植民地体制を維持するためにもズールー軍に完全な勝利を得ることが必要だと考えた。
怒りに燃えたイギリス軍は、今度は100%全力で襲いかかる。
こうなるともう相手にならず、ズールー族はあっという間に蹴散らされた。だけじゃない。
イサンドルワナの復讐として負傷したズールー人がいたら止めを刺し、逃げた人間は追跡して殺して、一人残らず皆殺しにした。
The pursuit continued until not a live Zulu remained on the Mahlabatini plain, with members of the Natal Native Horse, Natal Native Contingent and Wood’s Irregulars killing the Zulu wounded, in revenge for similar Zulu actions at Isandlwana.
日本人よ、これが紳士の国の軍隊だ。
ズールー族の戦士
これはマジでヤバい!
と恐怖で震えたセテワヨは和平交渉を望むも、イギリスに拒否される。
そして大砲、ガトリング砲(機関銃)、そして数千人のライフル兵の集中砲火を受けてズールー軍は崩壊。
首都ウルンディが陥落し、ズールー王国は滅亡した。
捕虜となったセテワヨは処刑されることはなかったものの、とても幸せとはいえない余生をおくる。
理不尽な要求をして戦争をはじめ、虐殺をした後に一国を亡ぼすレベルになると、100年以上たっても、「あれはひどかった。あれには心が痛む」となるらしい。
イギリス軍が屈辱的な敗北をした「イサンドルワナの戦い」
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