きょう5月21日は「探偵の日」。
1891(明治24)年のこの日、日本で初めて探偵の広告が新聞に掲載されたということで、この記念日が制定された。
でも国民全体にとって重要なのは、5月21日は「小学校開校の日」ということ。
1869年(明治2年)のこの日、京都市に日本最初の近代小学校が開校したことから、この記念日が制定された。
ちなみにその小学校とは、「上京第二十七番組小学校」と「下京第十四番組小学校」の2校。
これが画期的なのは、国より先に民間が動いて建てられた学校であることだ。
上下の身分や男女の性別に関係なく、国民すべてに学ぶ機会を確保しようと、政府は1872年(明治5年)に日本初の近代的な学校制度(学制)を定めて、全国に小学校・中学校・大学校を設置することにした。
3年後の1875年には、現在と同じぐらいの約2万4千校の小学校がつくられたというから、日本人の教育に対する熱意の高さがうかがえる。
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1890年(明治23年)になっても小学校数は2万6千校、就学率は49%と増えてはいるものの、ほぼ全員が就学していると言えるようになるのは明治の終りのことであった。
さて前に日系ブラジル人から、こんな話を聞いた。
戦前にブラジルへ移住した日本人はとても教育を重視していて、子供たちの未来のためにお金を出し合って学校を建てていた。
ブラジル初の日本人学校「大正小学校」は1915年にサンパウロで設立。
いまでもブラジル社会で日本人といえば、「教育熱心」や「頭がいい」といった良いイメージがあるという。
経済界の中枢のみならず、医師、弁護士、技師、地質学者、教員、芸術、文化、スポーツ等を含む広範な分野に進出し、ブラジルの発展に大きく貢献したと非常に高く評されている。
明治初期の京都人も同じ思いだったのだろう。
民間人がお金を出しあって、国より先に2つの小学校を開校させたのは、教育の重要性を強く考えていたからだ。
それでいま京都にはこんな博物館があって、ホームページの「小学校と市民の情熱」にはこう書いてある。
幕末の騒然とした京都にあって,新しい時代が到来することを予想して,新しい小学校創設を建議するための寄合に集まった町衆たちの様子や,「小学校建設の布達」,学校建設費を各番組(町組)に貸し付ける際の「八百両借用証文」などで,近代小学校創設の夜明けを資料などで紹介します。
いまの京都人は感情や考えをあまり表に出さないけど、このときはけっこう情熱的だったらしい。
ちなみに小学校の名称は、それより200年ほど前に登場している。
1685年に長崎の対馬藩に家臣の子供たちが学ぶ学校ができて、「小学校」と名付けられた。これが日本初とされる。
さて、コロナで休校となっているすべての学校が開くのは一体いつなのか?
上京第二十七番組小学校の記念碑
いまは京都御池中学校にある。
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