ポル・ポト時代のカンボジアと「北斗の拳」の世界

 

今日の一言

「この町でもっとも印象的なのは(そしてわれわれ全員による日本での一般的観察であった)男も女も子どもも、みんな幸せで満足そうに見えるということだった。(オズボーン)」

 

 

前回の記事で書いたことです。

・アンコール時代のカンボジアは、大帝国でタイを支配下に置いていた。
・でも、今は、経済発展の差はあまりにも大きい。
・その原因の一つが、カンボジアがポルポト政権を生み出してしまったこと。

 

今回の記事は、ポル・ポト時代のカンボジアが「北斗の拳」に与えた影響について書いていきます。

 

まずは、「ポル・ポト政権」とは?

「ポル­=ポト政権」

1975年にカンボジアで成立したポル=ポト(?~1998)の急進左派政権。都市から農村への強制移住、通貨の廃止、反対者の大量虐殺などをおこなった。

文化大革命の影響を受けて中国に接近し、隣国のベトナム・ラオスとは対立した

(世界史用語集 山川出版)

 

このポル・ポト時代に行われた大量虐殺の犠牲者は、一説には、150万人にものぼるという。

この大虐殺から、ポル・ポトは「アジアのヒトラー」とも言われることがある。
でもポル・ポトの思想(考え方)はヒトラーとはまったく違う。
「文化大革命の影響を受けて」と書いてあるように、毛沢東の思想に近い。

ポル・ポト政権側は虐殺をおこなっていたけれど、無差別に殺していたわけはない。
カンボジア国内にいた人々を「処刑すべき人間」と「その必要がない人間」と、大きく二種類に分けていた。

その考え方(分け方)には、「ポル・ポト理論」というものがある。

ポルポト理論では、彼らは旧体制の病原菌なのだ。菌は駆除しなければ広がってしまう。あるいは、かごの中にある腐った果実である。放っておくと、その周りの果実まで腐ってしまう。だから、取り除くしかない、というわけだ。

(ポル・ポト〈革命〉史 山田寛)

 

この場合の「病原菌」とは、ポル・ポト政権の考え方に反対する「思想」のことだろう。
政権側とは違う考え(思想)をもった人から、その考えが他の人に広がって反政府勢力になることをポル・ポト政権側はおそれていた。

政権にいる人間は、自分たちが別の勢力によって倒されることを何よりもおそれたはず。

 

 

そのためポル・ポト政権に批判的な考えをもつ「危険分子」を見つけて、「病原菌」のように取りのぞく必要があると考えた。

これは「腐ったリンゴ理論」とも呼ばれる。

ポル・ポト政権は、「腐ったリンゴは、箱ごと捨てなくてはならない」と唱えて、政治的反対者を虐殺した。

(ウィキペディア)

トゥールレイン刑務所
ポル・ポト政権にとって「危険」と考えられた人間を収容していた。
さらに拷問によって、別の「危険分子の仲間」を見つけていた。

 

ここでいう「腐ったリンゴ」も先ほどでてきた「病原菌」も同じで、「反政府思想をもつ人間」ということ。

ポル・ポト派から「腐ったリンゴ」とみなされた人間は、本当にはばが広い。
旧体制派の軍人や警官などの公務員はもちろん、歌手やダンサーまでも反体制側の人間として殺された。

 

ポル・ポト政権側が取りのぞきたかったのは、人というよりも「思想」だ。
だから、目には見えない。
「箱ごと捨てる」といっても、その箱の大きさが誰も分からない。

このあいまいさから、「知識をもっている」というだけで反ポル・ポトの考えをもっていると見なされて虐殺の対象となった。

これがやがて、「メガネをかけているだけで殺された」というところまでエスカレートしていく。

政権側の人間が、「メガネをかけている=知識人」というイメージを勝手に作り出して、そのイメージのもとに人を次々と殺害していった。

医者や教師を含む知識階級は見つかれば「再教育」という名目で呼び出され殺害された。始めは医師や教師、技術者を優遇するという触れ込みで自己申告させ、直ちに殺害した。どこかへ連れ去った。

やがて連れ去られた者が全く帰ってこないことが知れるようになり教育を受けた者は事情を理解し無学文盲を装って難を逃れようとしたが、眼鏡をかけている者、文字を読もうとした者、時計が読める者など、少しでも学識がありそうな者などは片っ端から殺害された。

また、無垢で知識が浅い子供が重用され、解放直後は14歳以下が国民の85%も占めていた

(ウィキペディア)

 

「解放直後は14歳以下が国民の85%も占めていた」ということは、国を再建させるうえで、致命的な状態だ。
しかも、知識をもっていた教師や僧侶も多く殺されていたのだから、これでは、国を発展させる要素がない。

 

ポル・ポト
画像と下の言葉は「NHK 映像の世紀 第10集」から。

 

この理想社会を実現させるため、ポル・ポト政権は家族を解体し、子どもたちを親から離して集団生活させた。
そして、洗脳教育をおこなう。

この当時、ポル・ポトは子どもたちにこんなスローガンをかかげていた。

我々は独自の世界を建設している。
新しい理想郷を建設するのである。
したがって伝統的な形をとる学校も病院もいらない。貨幣もいらない。
たとえ親であっても、社会の毒と思えばほほえんで殺せ。

今住んでいるのは新しい故郷なのである。
我々はこれより過去を切り捨てる。
泣いてはいけない。泣くのは今の生活を嫌がっているからだ。
笑ってはいけない。笑うのは昔の生活を懐かしんでいるからだ。

クモのフライ。
もともとカンボジア人はクモを食べてはいなかった。
ポル・ポト時代に食べるものがなくなって、クモまで食べるようになったという。
ポル・ポトは食文化も変えている。

 

ポル・ポト時代には、いくつかの方法で殺害がおこなわれていた。
銃で頭を撃ちぬいてすぐに殺されることもあれば、「銃弾がもったいない」ということで、クワやスキなどの農具で死ぬまで頭をたたかれて殺されることがあった。
多いのは、後者の処刑方法だ。

こうした処刑がおこなわれた場所は、「キリングフィールド」と呼ばれている。
キリングフィールドは、カンボジアの各地にある。

前にも記事で書いたけど、映画の「キリングフィールド」の原題は「キリングフィールズ」と複数形になっている。
何で、日本では「キリングフィールド」と単数形になったのかがわからない。

 

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プノンペン近郊にあるキリングフィールドのひとつ。
これは1995年の写真で、犠牲者の骨や衣類が地面から出てきていた。

 

こうしたポル・ポト時代の傷跡を、カンボジアに行った武論尊氏が見ることになる。
そのときの話がインタビューにある。

「激しい内戦が続いたカンボジアを見に行こうって、すぐ決断したね。もう『キリングフィールド』以上の地獄絵図だった。銃で頭を撃ち抜かれたり鈍器で撲殺されたような頭蓋骨が掘立小屋の中で山積みでね。」

「十歳くらいの子供がマシンガン持ってるし、山ではまだ銃撃戦の音が響いてた。見たものがべっとり頭ん中にこびつり付くような感じがしたよ。『北斗の拳』の連載が始まったのはこの翌年。元々、原哲夫君の設定は、現代を舞台に、『拳四郎』が法では裁けない悪党を暗殺拳で始末するという話だった。でもオレは、現代ではなく、カンボジアのように殺伐とした世界でこそリアリティが出ると思ったの。

(週刊文春 2016年4月21日号)

「北斗の拳」の世界観が生まれた背景には、ポル・ポト時代のカンボジアや「マッドマックス」という映画のイメージがあると武論尊氏は話している。

 

 

武論尊氏の漫画で「サンクチュアリ」というものがる。
この漫画の舞台にカンボジアがあったから、「この原作者はカンボジアに興味がある人なのかな?」と思ったことはある。

ボクがカンボジアに行って見た「キリング・フィールド」は衝撃しょうげき的で、そこに立つだけで足元が震えてきた。

だから武論尊氏がカンボジアを受けた衝撃が、「北斗の拳」の世界観につながっているということを知って感慨かんがい深いもの、心にくるものがある。

 

ボクはカンボジアと北斗の拳の関係を最近知ったのだけど、ウィキペディアにも書いてある。
だから、前から有名なことだったのかもしれない。

武論尊が連載前にカンボジア旅行で目撃した、ポル・ポトの虐殺によって荒廃した街の風景も、本作の世界観に影響を与えた

(ウィキペディア)

ポル・ポト時代のカンボジアについては、こちらの記事も書いています。

このクモ、食べないとダメですか?~ポルポト政権下のカンボジア人 ①

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。