はじめの一言
「日本の工芸の輝かしい成功は、漆塗りの家具と道具の類である。同名の灌木から抽出した、比類のない日本漆を使いこなす才能たるや、まことに見事である。また、装飾技術を駆使して最高の効果をあげるその手腕も立派なもので
(アンベール 江戸)」
「続・絵で見る幕末日本 エメェ・アンベール」
![IMG_5586](https://i0.wp.com/yukashikisekai.com/wp-content/uploads/2016/05/IMG_5586-300x225.jpg?resize=300%2C225)
今回の内容
・東ティモールの誕生
・中世ヨーロッパのカトリックとプロテスタントの争い。
・オランダ「もう、スペインはイヤだ」
・東ティモール
人間、結婚してもうまくいかないことはある。
永遠の愛を誓っても、離婚を選んだカップルもボクの友だちにいる。
ボクの友だちの場合、離婚の原因は価値観の違いだった。
離婚の原因としては、この価値観の違いがもっとも多い。
価値観が違うと、一緒にやっていくのは本当にむずかしい。
いきなり話は大きくなる。
国が「分離・独立する」というのも、いってみれば「国が離婚する」ということになる。
それまで一つの国としてまとまっていたのに、その中のある地域が独立して別の国になってしまうことだから。
アメリカはイギリスから分離・独立している。
それは、アメリカがイギリスに離婚をつきつけて、力づくで離婚を認めさせたというようなものだろう。
人間の離婚もそうだけど、国が分離・独立する理由でも「価値観の違い」がもっとも多いだろう。
そして国の場合の「価値観の違い」というのは、ほとんど宗教の違いになる。
「宗教が違う」ということは、独立する理由になる。
![](https://i0.wp.com/yukashikisekai.com/wp-content/uploads/2016/07/DSC02471-300x201-1-300x201.jpg?resize=300%2C201)
さて、ここでクイズ。
21世紀になってから初めて誕生した国はどこか?
答えは、「東ティモール」。
2002年に東ティモールは、インドネシアから分離・独立している。
何で東ティモールは、インドネシアから離れたかったのか?
いろいろな理由はあるけど、「宗教が違った」ということが一番の理由だろう。
インドネシアはイスラム教徒の数が世界でもっとも多い「世界最大のイスラム国」だ。
一方、東ティモールにはキリスト教徒が多い。
外務省のHPにある東ティモールの基本情報によると、「キリスト教99.1%(大半がカトリック)、イスラム教0.79%(外務省HP)」とある。
ただ2002年に独立したときに、たくさんのイスラム教徒がインドネシアに行ってしまったから、これは独立前のデータではない。
けど、東ティモールにキリスト教徒がたくさんいたのはたしか。
![](https://i0.wp.com/yukashikisekai.com/wp-content/uploads/2017/02/001033-300x199.jpg?resize=300%2C199)
「東ティモールが独立できたのは、キリスト教徒がたくさんいる国だったから」ということはよく言われる。
「同じキリスト教徒(カトリック)の人たちが独立したがっている」と聞けば、世界中のキリスト教の国が東ティモールの独立運動を支援したくなる。
ウィキペディアにはこんな文がある。
独立運動を精神面で支え続けたカトリック教会への信頼は高まった。
(ウィキペディア)
人口が少ない東ティモールには、ノーベル平和賞の受賞者が二人いる。
1996年12月、ノーベル平和賞が現地カトリック教会のベロ司教及び独立運動家のジョゼ・ラモス=オルタに贈られた。
(ウィキペディア)
この受賞理由には、「彼らがキリスト教徒だったから」ということがあるだろう。
こうやってノーベル平和賞をあげたことも、「キリスト教国による東ティモールの独立支援」と受け止めてもいいだろう。
もし彼らがイスラム教徒だったとしても、ノーベル平和賞をあげただろうか?
この点、インドネシアで同じく独立運動をしていたアチェに対しては、世界(特にヨーロッパ)の注目が集まらなかったと思う。
「彼らはイスラム教徒だから」ということは、その理由にきっとある。
![](https://i0.wp.com/yukashikisekai.com/wp-content/uploads/2017/05/IMGP5126-300x199-300x199.jpg?resize=300%2C199)
・カトリックとプロテスタントの争い。
話がだいぶそれてしまった。
今回の記事で書きたかったのは、ヨーロッパ、特にオランダのこと。
オランダも宗教の違いから、スペインから分離・独立することになった。
「何でオランダは、スペインから分離・独立することになったのか?」
それを書く前に、スペインがその当時どんな国だったのかを確認しておこう。
スペインは「反イスラム」の国で、イスラム教徒をイベリア半島から追い出してレコンキスタを完成させた国だ。
レコンキスタ(国土回復運動)
イスラーム教徒からイベリア半島の領土を奪回しようとしたキリスト教徒の戦い。8世紀初めから1492年まで、ほぼ800年間続いた。
(世界史用語集 山川出版)
「800年ぶりにイベリア半島を取り返して、キリスト教(カトリック)の国にした!」ということが、当時のスペイン人の誇りだったはず。
レコンキスタを終わらせても、スペイン人の宗教的な情熱を止めることはできなかった。
カトリック教徒としての熱意を、スペイン国内に向けている。
イベリア半島からイスラム教徒を追い出したように、今度はスペイン国内から新教徒(プロテスタント)をなくそうとしている。
イベリア半島を「キリスト教の国」にしたように、スペインを「完全なカトリック(旧教徒)の国」にしようと考えた。
日本人からしてみたら「同じキリスト教徒なのに、何で争うのか?」と思ってしまうけど、この時代のヨーロッパではこれが当たり前。
同じキリスト教徒でも、違う考え方をしているキリスト教徒(異端)は絶対に許さない。
「異端の罪は異教の罪より重い」という考え方があった。
高校で世界史を学んだ人なら、この「新教徒と旧教徒の争い」として「ユグノー戦争」と「サンバルテルミの虐殺」を習ったと思う。
下は世界史用語集から抜き出したもの。
ユグノー戦争
1562~98
フランスでおこった宗教戦争。新旧両派の対立と、貴族の権力闘争の二つの側面を有していた。
サンバルテルミの虐殺
1572年8月にパリで勃発した、旧教徒による新教徒殺害事件
祝賀に集まったパリの新教徒を旧教徒が多数殺害し、騒乱は地方へと拡大した。
この「サンバルテルミの虐殺」では、旧教徒(カトリック教徒)が、多数の新教徒(ユグノー)を殺害したという知らせを聞いたローマ教皇は大喜びしたという。
特に一五七二年の聖バルテルミー祭の虐殺は有名で、一万人以上のユグノーが殺された。その報知にローマ教皇は手を打って喜んだ言われている。
(キリスト教の歴史 小田垣雅也)
「同じキリスト教徒、しかも、同じフランス人同士で殺し合うなんて!」と、ボクが高校生のころは思ったけど、この時代に「私はフランス人です」なんて思っていた人はいないだろう。
この時代のヨーロッパには、オランダ人もスペイン人もフランス人なんていう「国民意識」はなくて、ただ旧教(カトリック)と新教(プロテスタント教徒)がいただけだったと思う。
・オランダ「もう、スペインはイヤだ」
「スペインを完全なカトリック教徒の国」にしたい!」
と並々ならぬ情熱を持っていたのがときの国王フェリペ2世。
フェリペ2世にはネーデルランドの存在が気に食わない。
ネーデルランドというのは、現在のベルギーとオランダのあたりのこと。
この地域はスペインから独立する前までは、スペインの一部だった。
そしてここには多くの新教徒がいた。
スペイン国王フェリペ2世はネーデルランドにいた新教徒(プロテスタント)に、旧教(カトリック)に変わるよう改宗を迫った。
これに反発したネーデルランドの人たちはスペインとの独立戦争を決める。
これがオランダ独立戦争になる。
もし、スペインとネーデルランド(オランダ)が同じカトリックを信じていたら、この戦争は起こらなかったはず。
だからこの分離・独立戦争の理由は、「価値観(宗教)が違っていたから」ということになる。
「宗教が違う」ということは、独立するためのじゅうぶんな理由になる。
でも、この違いだけだったら、戦争にはならなかったかもしれない。
国王フェリペ2世は、オランダのプロテスタントを力で無理やりカトリックに変えようとしてしまった。
そのことが、オランダを追い詰めたことになる。
それでスペインとの「離婚」を決意させている。
こうしたことを見ると「価値観の押しつけ」は絶対にやってはいけないことだと分かる。
相手は「自分とは違った価値観をもつ別の人間だ」と認識することが大事だ。
違いをそのまま認めなければ、共生はうまくはいかないだろう。
どちらかに価値観を合わせるような強制があったら、共生なんてできるわけがない。
ちなみに、スペイン国王フェリペ2世の名にちなんでつけられた国名が「フィリピン」になる。
次回はオランダとベルギーの誕生について。
よかったらこちらも。
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