この記事では19世紀後半のインドと中国の様子を書いて、次回、日本の動きを書いていきたい。
よろしくお願いします。
昔からインドにカレーはあったけれど、「タンドリー・チキン」はそうではない。元はインド料理でもなかった。
そんなことについても触れながら書き進めていく。
この時代にインドにヒンドゥー教徒が支配していたインドに大きな変化が起きたのは、12世紀のころになる。
このときから、インド西(アフガニスタン)からイスラム教徒による襲撃を受けるようになった。
そして、13世紀には、インド初のイスラム王朝である「奴隷王朝」が生まれることになる。
このときデリーを支配した武将の「アイバク」は、ヒンドゥー教徒への勝利に記念に、「クトゥブ・ミナール」という塔を建てた。
この塔はいま世界遺産になっていて、デリー観光の「定番コース」に入っている。
「クトゥブ・ミナール」
この塔を見た人も多いはず。
現在のインドに決定的な影響を与えたのが、16世紀のイスラム王朝「ムガル帝国」によるインド支配であった。
インドのほぼ全土を手中に収めた、このイスラム帝国の「ムガル」の名は、「モンゴル」に由来する。
インド料理で有名な「タンドリー・チキン」は、この時代にインドに来たイスラム教徒がもたらした料理で、カレーのようにインドで生まれた料理ではない。
「タンドリー・チキン」は、正確に言えば、「インド=ペルシャ料理」だろう。
ちなみに、「ナン」はペルシャ語。
その後、18世紀には、イギリスとフランスとの間で、「インド争奪戦」が始まる。
1757年のプラッシーの戦いでイギリスがフランスに勝ち、フランスをインドから追い出した。これがイギリスのインド支配の第一歩になった。
もし、このとき、フランスが勝っていれば、インドはフランスの植民地になっていた可能性は高い。
そうなると、「フランス風インド」という、今のインドとはまったく違う国になっていたはずだ。
どんなインドだろう?
この戦いに破れて、インドから「追い出された」フランスが次に目を着けたのが、ベトナムだ。ベトナムにしてみたら、これ以上ないような迷惑。
その後、インドは、イギリスによって植民地支配を受けることになる。
しかし、インドは、黙ってイギリス支配を受け続けていたのではなく、1857年には、「インド大反乱(シパーイーの反乱)」が起こる。
「シパーイー」とは、イギリスが植民地支配をやりやすくするために雇った、インド人の傭兵(ようへい)のことだ。
この反乱は、インド人がヒンドゥー教・イスラム教の「宗教的対立をこえてムガル皇帝を擁立(ようりつ)、イギリスに宣戦した(世界史用語集)」という意味をもつ。
日本の教科書では、「反乱」とイギリス側の見方で書かれているけれど、インドでは、「独立戦争」と呼ばれている。
歴史認識は国ごとに違う。
この「反乱」は、イギリス軍に鎮圧(ちんあつ)されてしまう。
しかし、インド人の「独立戦争」は、イギリスを激怒させた。
イギリス軍は、「反乱軍」のインド人を大砲につめてぶっ放し、肉片を四散させるようなことをしている。
さらに、この反乱の失敗により、ムガル帝国は、滅亡してしまう。
そして、ムガル皇帝がなくなった後のインドでは、イギリスのヴィクトリア女王が、「インド皇帝」になっている。
そしてこの時代は、すべてのインド人が大英帝国の臣民であり、イギリス国民にもなっている。その意味では、誰もが平等なのだけど、インドにはカーストによる差別があった。
このとき、イギリスの人権感覚とヒンドゥー教のカースト差別がぶつかることもあった。
このインドの「大反乱」が起きた時代、中国では1851年に「太平天国の乱」が起きている。
清朝の末期に洪秀全(こうしゅうぜん)が起こした大規模な反乱だ。
これは清への戦いであると同時に、西洋支配への戦いでもある。
しかしこれも、インド大反乱と同じように潰(つぶ)されている。
こうした動きがあった時代を「世界史用語集」では次のように述べている。
19世紀半ば、中国での太平天国の乱やインド大反乱など西洋支配への抵抗運動が敗北したことは、アジアの各地の人びとに大きな危機感をいだかせた
(世界史用語集 山川出版)
こうした危機感がアジア全土を覆い尽くそうとしていたとき、「極東」と呼ばれる世界の東の果てで、世界中の人々を驚かせるような出来事が立て続けに二回起きた。
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