始めの一言
日本人が編み出した集団生活の伝統と知恵とは、日本人の性格を、うわべをみる限りは人当たりがよく、温和なものに作り上げることに寄与した。彼らと比べた際には、欧米人は感情を平気で表に出すという点で、いささか荒っぽく、予測不能で、人間として練れていないようにみえる。
(ライシャワー 昭和)「日本絶賛語録 小学館」
今回の内容
・カトリックとプロテスタントが多い国
・神父と牧師の違い
・カトリックとは?
・中国にいったキリスト教
キリスト教徒の欧米人と接するなら、相手を喜ばすことに気をつかうより、まずは、相手を怒らせないことや不快にさせないように配慮した方がいい。
特に宗教に関しては、「無宗教が当たり前」という日本人と外国人とでは考え方が違う。
日本人がキリスト教をあまり知らなくて、何気なく言ったことで、外国人を不快させることあるかもしれない。
一度にたくさんを覚えることは難しいから、まずはキリスト教のカトリリックとプロテスタントの違いを簡単に知っておいた方がいい。
外国では日本ではないような不思議なことが起こる。
たとえばドイツのミュンスターという都市でこんなことがあった。
ある日、キリスト教徒のプロテスタント女性が、借りていた住居の階段で、聖母マリアの像を見つける。
それはキリスト教のカトリック信者だった大家が置いたものだった。
そしたらそのマリア像を見た女性が、「家賃を下げろ!」と、大家を裁判に訴えることになった。
それが下の文。
ミュンスターの裁判所は、二〇〇四年に次のような賃貸問題の審理を行いました。
住居を賃貸していた。プロテスタントの一女性が、カトリック信者の大家が階段に聖母像を置いたとして、家賃の引き下げを要求したのです。(キリスト教のとても大切な101の質問 創元社)
裁判官はこの女性の訴えを認めなかった。
というか、こんなことが裁判になるんだ。
訴訟大国のアメリじゃなくてドイツで。
この女性が訴えたってことは、マリア像を見て、相当、怒ったか不快になったんだろう。
でも、何でキリスト教徒がマリア像を見て、こんなに嫌な気持ちになるのか?
と前までだったら、疑問に思っていた。
でも今は、カトリックとプロテスタントの違いが自分なりに分かってきたから、このプロテスタントの女性の気持ちが少しは分かる。
キリスト教のプロテスタントだったら、不愉快になるかもしれない。
でも、「訴えるほどのものか?」っていう気はするけどね。
マリア像だけが原因じゃなくて、大家とうまくいっていなかったのかもしれない。
これが、そんなにイヤのなの?
・カトリックとプロテスタントが多い国
大ざっぱにいえば、カトリックはヨーロッパと中南米に多い。スペインの植民地だったフィリピンもカトリックがたくさんいる。
そしてプロテスタントは北欧・アメリカ・イギリス・オーストラリアに多くいる。
・神父と牧師の違い
神父と牧師はキリスト教の聖職者だけど違いはある。
簡単に言っちゃえば神父はカトリックの聖職者で、牧師はプロテスタントの聖職者だ。
神父
カトリック教会で、司祭などに対して用いる尊称(大辞泉)牧師
プロテスタント教会の聖職者(大辞泉)
だから牧師がいたら、そこはプロテスタントの教会ということになる。
これは「明治村」にあった教会。
「神父」ということは、この教会はカトリックの教会ですね。
・カトリックとは?
カトリック
ギリシア語の「普遍的」を意味するカトリコスに由来することば。ニケーア公会議以降アタナシウス派がこれを称し、ローマ教会が正統な継承者を自任した
(世界史用語集 山川出版)
「普遍的(ふへんてき)」って言葉が難しい。
「goo辞書」では、「例外なくすべてのものにあてはまること」とある。
キリスト教の「カトリック(普遍的)」は、「何の間違いもない、100%絶対に正しい教え」のようなものだと思っている。
上の文に出てきた「ニケーア公会議」とは、325年に開かれている。
それから約1700年が過ぎた現在でも、ローマ教会(カトリック)が「正統な継承者を自任している」ことはまったく変わっていない。
何かすごいね。
だってこのとき、日本は古墳時代の真っ最中だよ?
ヨーロッパ人がキリスト教について「何が正しくて、何が間違っているか?」ということを会議で話し合っていたときに、日本人は一生懸命、埴輪(はにわ)をつくっていた。
想像するとほほ笑ましくなる。
同じ神(God)を信じていたとしても、カトリックと違う考え方であれば、それは「異端(いたん)」と呼ばれていた。
異端
正統教義に反する教説。
4世紀に皇帝が招集した四つの公会議によってキリスト教の「正統」信仰が確立されていき、その都度異なる教説が異端として排除された。(世界史用語集 山川出版)
・中国にいったキリスト教
ちなみに5世紀に、「異端」と認定されてしまったキリスト教のグループに「ネストリウス派」というものがある。
異端となった彼らはヨーロッパに住むことを許されず、ヨーロッパから追い出されてしまった。
そして東へ東へ行って中国(唐)の長安にたどり着いた。
この当時の長安は、世界のいろいろな民族が集まる国際都市だった。
今のニューヨークのようなものだと思う。 そしてこの「キリスト教のネストリウス派」は、中国では、「景教(けいきょう)」と呼ばれるようになった。
一方この時期、日本には空海がいた。
遣唐使になった空海は、長安を目指して西へ西へと行った。
そして、たどり着いた長安で多くのことを学んで、日本へ帰ってきた。
空海の思想にはこの「景教(キリスト教のネストリウス派)」の考え方の影響がある、ということを何かの本で読んだことがある。
世界はどっかでつながっている。
唐の時代に流行した(らしい)日本女性風の髪型
ちなみにこの景教は、この後も中国周辺に根づいていたらしい。
世界史上最大の帝国をつくったチンギス・ハーンの孫に、4代目の皇帝となった「モンケ=ハーン」という人がいる。14世紀の人。
このモンケ=ハーンのお母さんがネスリウス派のキリスト教徒だ。
でもネストリウス派は、異端と認定されてもキリスト教ヨーロッパから追い出されるだけで良かった。
14世紀になると、カリック教会に「異端認定」されたフスという人は、生きたまま焼かれてしまったから。
次回はプロテスタントのことを書きます。
よかったらこちらもどうぞ。
日本人とキリスト教徒(アメリカ人)との宗教観の違いについてはこちらをどうぞ。
アメリカ人と京都旅行 ~日本人とキリスト教徒の宗教観の違い~ 1~5
アメリカ人と京都旅行 日本人とキリスト教徒の宗教観の違い 6~11
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