キリスト教の宗派の対立③ ルターと織田信長という「破壊者」

 

はじめの一言

(吉田松陰らについて)「知識を増すために生命をさえ賭そうとした二人の教養ある日本人の烈しい知識欲を示すもので、興味深いことであった。日本人は疑もなく研究好きの人民で、彼等の道徳的並びに知識的能力を増大する機会を喜んで迎えるのが常である。(ペリー 幕末)」
「日本絶賛語録 小学館」

 

 

今回の内容

・ルターと織田信長
・今のカトリックとは、違う。
・プロテスタントの誕生

 

・ルターと織田信長

ドイツ人のルターとは、織田信長のような人物だ!
と言わせてほしい。

まずルターも織田信長も16世紀の人物で、同じ時代に生きたという共通点がある。
そして何より、この二人は日本とヨーロッパの「一つの時代を終わらせた人物」だから。

 

JR岐阜駅前にある黄金の信長像。
評判はイマイチらしい。

 

織田信長は室町幕府を滅ぼして、戦国時代も終わりにぐっと近づけた。

天下統一は豊臣秀吉によって1590年に完成されたけど、信長がいなかったら、できたわきゃない。

で、ルターが終らせたのはヨーロッパでの「カトリックによる統一」という時代。

マルティン・ルターによって1517年に火蓋をきられた宗教改革は、カトリックによるヨーロッパ統一の時代を終焉させた。

(ヨーロッパの歴史 東京書籍)

 

ルターが「これはダメだろう!」と問題視したのが、カトリック教会が売っていた「免罪符」というもの。

前回の記事と重なってしまうけど、復習代わりにつき合ってほしい。
罪を犯しても、この免罪符を買えば許されてしまう。
罪の大きさによって、免罪符の値段も決まっている。

それはこんな感じに。

殺人については、被害者が聖職者でない場合は金貨五枚、聖職者の場合は七枚であった。

(ハプスブルク一千年 中丸 明)

 

そんなカトリック教会のやり方や考え方に、「それは、間違っている!そんなことは聖書に書いていない!」と異議を唱えたのがドイツのマルティン・ルター。

マルティン・ルターは、聖書を説くことより金集めに夢中な教会に抗議し、プロテスタントの宗教改革に火をつけた。

(キリスト教封印の世界史 徳間書店)

 

宗教改革は1517年にドイツから始まっている。
けど、「1520年からって、言ってもいいかな?」とも思う。

ルターは、カトリック教会に「あなた方のやり方は間違っている!」と言ったことから、ローマ教皇から「破門(キリスト教会から追放されること)」を受けてしまった。

でもこの破門が、逆にルターの闘志の炎を燃やすことになった。

1520年、破門を宣告されたが、彼はその破門勅書を公衆の面前で焼き捨てた。

(ヨーロッパの歴史 東京書籍)

ルターは大勢の人が見ている前でカトリック教会からの「破門所を焼き捨てた」。
これはもう、カトリック教会への宣戦布告そのもの。戦闘開始の合図。

「この瞬間から、宗教改革が始まった」っていっても、決して間違いじゃないと思う。

 

Lucas_Cranach_(I)_workshop_-_Martin_Luther_(Uffizi)

ルター(ウィキペディアから)

 

・今のカトリックとは、違う。

この時代のカトリックは、今のカトリックとは全然違う。

免罪符を売っていたこともそうだけど、はっきり言って腐っていた。

民衆が教会に対する信頼感を失ってきた危機に、教皇の華美な宮廷の乱脈ぶりをしばしば目の当たりにするいらだちが加わった。

教皇の友人や近親者だという理由だけできわめて高い聖職につくことができ、ときにはその職が売買されてたりした。

司教区や小教区で司祭は説教を怠り、もはや魂の救済に関心を持たなくなった。

(ヨーロッパの歴史 東京書籍)

「魂の救済に関心を持たなくなった」聖職者ってなんなん?
「魚に興味がなくなった魚屋さん」みたいな感じですか?

カトリックに失望していたり、怒っていたりしていた人がヨーロッパに大勢いた。
当然、ルターの考え方に共感して、彼を支持する人たちが出てくる。
彼は「プロテスタント」と呼ばれるようになった。

 

・プロテスタントの誕生

キリスト教の「プロテスタント」とは、「抗議する人たち」と言う意味。

プロテスタント

カトリック教会から分離した、教皇権を認めない宗派の総称。「抗議する者」の意で、1529年シュバイアー帝国会議でカール5世がルター派を禁止したことに対する抗議に由来する。

(世界史用語集 山川出版)

英語で「抗議する」は「プロテスト(protest)」って言うでしょ?

このプロテスタントと同じで、まさに、「抗議する人」の意味になる。
カール5世を含めて「カトリックは間違っている!」と、プロテスト(抗議)したってことだろうね。

 

そしてこのプロテスタントは、ヨーロッパ中に広がっていく。

プロテスタントの教えは、ドイツ・スイス・北海沿岸低地帯・イギリス・スコットランド、北欧諸国にたちまち広がり

(キリスト教封印の世界史 徳間書店)

ルターが現れた後のヨーロッパは、それまでのヨーロッパとはまったく別の世界なった。

ルターの考えを支持するキリスト教徒は、ルター派と呼ばれていた。
この後、カルヴァンという人も出てきて、彼を支持する「カルヴァン派」というグループも出てくる。

両派ともプロテスタント。

 

こうして、新教(プロテスタント)と旧教(それまであったキリスト教:カトリック)で大争いをすることになる。

その争いに疲れて結ばれた条約がこれ。
アウグスブルグの和議(1555年)では、ルター派だけが信仰を認められた。

 

でもこのアウグスブルクの和議はしっかりと守られてはいなかった。
そのことから、三十年戦争が起きてしまう。

それで、三十年戦争の講和条約である「ウェストファリア条約(1648年)」で、もう一度アウグスブルクの和議を確認することになる。
同時にウェストファリア条約で、カルヴァン派の信仰も認められることになった。

これが、現在につながるヨーロッパになる。

 

さてどうでしょう?
織田信長とルターの登場の前後で、日本とヨーロッパの社会は大きく違っている。
2人ともそれまでの古い時代を破壊してしまったから。

信長は室町時代を終わらせた。
ルターはカトリック支配していたヨーロッパの時代を終わらせた。

そして日本とヨーロッパは、新しい時代を迎えることになる。

次回は、ルターの考え方(プロテスタント)は、どのようなものだったのかを書きます。そうすれば、プロテスタントとカトリックの考え方の違いが分かるはず。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。