はじめの一言
「愛くるしい日本国民の微笑、比類なき礼節、上品で果てしないお辞儀と明るく優美な表情には、はるかに心よさを覚えます。(シドモア 明治時代)」
「シドモア日本紀行 講談社学術文庫」
今回の内容
・スタバで神とつながれる?
・大事なことは「信仰」でしょ!
・キリストがいなくなったキリスト教
・スタバで神とつながれる?
ボクが、実感として感じた「カトリックとプロテスタントの宗派(教派)の違い」は、「スタバで神とつながることができるかどうか?」ということ。
スタバで神とつながることができるのがプロテスタントで、スタバではつながれないのがカトリック。
前に、プロテスタントのアメリカ人とカトリックのフィリピン人とスターバックスで、コーヒーを飲んでいた。
ちょうど目の前に、カトリックとプロテスタントの信者がいたから、両派の宗派(教派)の違いについて聞いてみたことがある。
それは、それぞれの信仰に対する考え方で、前の記事で書いたこのこと。
カトリック教会は、一般信徒は神と直接にコンタクトをもつことができず、両者の間を聖職者と教会が仲介すると考えたが、宗教改革派は、一般信徒にも神との直接的な対話が可能ととらえた(宗教改革の真実 永田諒一)
この考えを、スタバでお茶をしているこの状況に当てはめてみたら、どうなるか?
カトリック教徒は、神とつながることはできない。
けど、神と直接コンタクトすることができるプロテスタントなら、ここでも神とつながることができる。
で、二人に聞いてみた。
「ここで神とつながれる?」
プロテスタントのアメリカ人。
「それは、できる。神は天にいるから、地球上のどこからでも神とつながることができる。自宅でもここ(スタバ)でも、場所は問題じゃない」
カトリックのフィリピン人。
「私には、それはできない。教会で、神父をとおしてでないと、神とつながることができないから。スタバじゃムリ」
という。
「これが、カトリックとプロテスタントの違いなんだあ」とつくづく実感した。
もちろん、これはこの二人に聞いただけで、世界中のカトリックとプロテスタントが同じじゃないだろうけどね。
・大事なことは「信仰」でしょ!
このプロテスタントのアメリカ人の考え方は、ルターの「人は、信仰によってのみ救われる」という考え方に通じるものがある。
というか、ほとんど同じじゃないかな?
今まで書いた記事の内容と重なってしまう部分もあるけど、キリスト教を知るうえでは、とてもとても大事なことだから、ルターの「信仰」について書いてしまう。
高校で習う世界史で、ルターの考え方で一番大事なことは、「人は、信仰によってのみ救われる」ということ。
「人は信仰によってのみ義とされる」 魂の救済は信仰によってのみ可能であるとの考え方。(世界史用語集 山川出版)
このことを、もう少し詳しく説明するとこうなる。
神の義は、罪人を裁く審判の正義ではなく、信仰によって罪人を義とする神の恵みであり、人間はこの恵みに信頼する信仰によって救われるという福音の根本真理を悟るに至った(キリスト教入門 嶺重 淑)
ルターがこのことを発見した(悟った)瞬間はこんな感じだったらしい。
ついに神は私に哀れみをかけられた。
私は神の義が何であるかをようやく悟ったのだ。
それは、神の恵みにより、義人がそれによって生きるところのもの、すなわち信仰にほかならない。(ヨーロッパの歴史 東京書籍)
「信仰によってのみ、魂は救われる」と悟ったルターの目には、「行為」を重視するカトリックが許せない。
カトリック教会は、「免罪符を買えば、魂は救われる」と言って、大儲けしていた。今でいう霊感商法で、ルターには、カトリックのやり方も考えたも見逃せなかった。
大事なことは「信仰」で、お金を出して免罪符を買うという「行為」ではない。
これは、「愛」も同じかもしれない。
「愛している」ということは、プレゼントをたくさん買うという「行為」ではなく、「気持ち」が大事、というもの。
でも、気持ちは行為にして表さないと分かりにくいのも事実。
・キリストがいなくなったキリスト教
それはともかく、「お金を出せば、魂が救われる」と喜々として免罪符を買い求める人びとの姿に、ルターは、「キリスト教の危機」を感じている。
免罪符を買うことで、人間は自身の「行為」によって魂の救済を手に入れることが可能になってしまいます。つまり、献金で懲罰を帳消しにしてもらおうというわけです。(キリスト教のとても大切な101の質問 創元社)
ルターは、自分の教区民が悔い改めの行為をせず、金銭によって安易に魂の救いが得られるとしたことに宗教的危機を感じて「九十五か条の論題」を発表した。これがドイツ宗教改革の発端となる「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」
こんな中世ヨーロッパのカトリック教会を象徴するのが、免罪符を売っていた「テッツェル」が言ったとされるこんな言葉だ。
贖宥状(しゅくゆうじょう)は、免罪符のこと。
「贖宥状を購入してコインが箱にチャリンと音を立てて入ると霊魂が天国へ飛び上がる(ウィキペディア)」
お金を出せば、それだけ、天国へ近づける!
お金を出せば、魂は救われる!
こんな風潮を皮肉った絵が「宗教改革の真実 永田諒一」にある。
上の図は、贖宥状の販売を批判している一五二〇年の木版画である。そこでは、贖宥状そのものというより、その販売と、それによって金儲けをしているローマ法王が攻撃対象となっている。
左側中段の一段高い説教壇にいるのが、販売担当の修道士で、ちょうどひとりの信徒に贖宥状を手渡している。
右側下段では、教会の職員が贖宥状の代金を受け取っている。
(中略)上段中央は、どの教会にも必ずある十字架のイエス・キリスト像であるが、十字架だけで、イエスはどこかに行ってしまっている。「宗教改革の真実 永田諒一」
つまり、魂の救済ではなくて、金儲けに大忙しのカトリック教会をキリストが見限って、出て行って(消えて)しまったということになる。
「キリストの教えから離れてしまったキリスト教」、これが、ルターが感じたキリスト教の危機だと思う。
ルターの怒りや危機感から、カトリックとは違うプロテスタントという宗派(教派)が生まれることになった。
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日本人とキリスト教徒(アメリカ人)との宗教観の違いについては、こちらをどうぞ。
アメリカ人と京都旅行 ~日本人とキリスト教徒の宗教観の違い~ 1~5
アメリカ人と京都旅行 日本人とキリスト教徒の宗教観の違い 6~11
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