始めの一言
「電車の中でふたり連れが立っている。座席がひとつ空く。おたがい譲り合った後に、ようやくひとりが席につくと、必ずその人は立っている人の荷物を持ってやろうと手を差し出す。こんな心温まる小さな親切は、ぼくは日本以外で見たことがない。ああ、これこそ日本。(コリン・ジョイス 平成)」
「『ニッポン社会』入門 コリン・ジョイス」
今回の内容
・カトリックの信仰のしかた。
・キリスト教をみんなものに。
・プロテスタントの彼女は、スタバで神とつながる。
「愛しているって、プレゼントをたくさん買うという『行為』じゃないだろ、『気持ち』だろ!」
そう悟ったルターは・・・、いや違う。
「人の魂は、『行為』ではなくて『信仰』によってのみ救われる」と悟ったルターは、「免罪符を買えば、あなたの魂は救われる」と、人びとを「だましていた」カトリック教会に戦いを挑むことになった。
マルティン・ルターは、聖書を説くことより金集めに夢中な教会に抗議し、プロテスタントの宗教改革に火をつけた。
(キリスト教封印の世界史 徳間書店)
この宗教改革は、1517年に行われた。
それから約500年がたった今は2016年。
スターバックスで一緒にコーヒーを飲んでいる、カトリックのフィリピン人とプロテスタントのアメリカ人の信仰の違いも、ここから生まれている。
「スタバで、神と直接つながることができる」というプロテスタントのアメリカ人の信仰は、もとをたどれば、ルターの考え方にいきつく。
「スタバでは、神とはつながることできない。教会に行かないとダメ」というカトリックのフィリピン人の信仰は、500年前のカトリック教会の考え方から続いている。
フィリピン人に、ボクがさらにこんな質問をしてみた。
「じゃあ、カトリックでは、神父なしで自分が神とつながることは絶対にできないの?」
しばらく考えてから、彼女はこう言う。
「食事の前に祈るのは、神父なしで自分でやっている。それならできるけど、それ以外は、思いつかない」
まあ、確かに、朝・昼・晩でご飯を食べるときに、いつもカトリックの聖職者が同席しているはずがない。
じゃ、中世のヨーロッパでは、どうだったんだろう?
この時代は、聖職者に祈ってもらった後に、食事をしていたのかな?
と、思って調べてみた。
下の記述にそのことがある。
これは、中世ヨーロッパのあるお金持ちの食事の様子。
この時代のヨーロッパ人の生活が垣間見られてそれも面白いから、少し長めに引用する。
食事の準備が整うと、召使いが笛を吹いて知らせる。
ナプキン、手洗い用水盤、水差しが用意され、みなが手を洗う。ただし、石鹸は使わない。
手洗い用水盤は隣の人と共用だった。
テーブルに聖職者がいない場合は、家族のなかで一番若い人が祈りを捧げ、最後にみなで「アーメン」と唱和する。
食事は去勢鶏のブルーエからスタートするのが一般的だ。「中世ヨーロッパの都市の生活 講談社学術文庫」
中世のヨーロッパでは、できれば聖職に祈ってもらうことが望ましいんだけど、現実的に、必ずしもそうはいかない。
そのときは、聖職者抜きで、自分たちで祈っている。
この考え方の延長に、スタバで話したフィリピン人がいる。
・キリスト教をみんなものに。
プロテスタントのアメリカ人が、スタバで神とつながることができる理由に、ルターがやった「キリスト教の世俗化」があると思う。
一言でいえば、「キリスト教をみんなのものする」というもの。
カトリックは、「キリスト教は、教会だけのもの」と考えていて、一般のカトリック信者は、聖書を読むことは禁止されていた。
そもそも、カトリック教会が使っていた聖書は、ラテン語で書かれていて、一般のヨーロッパ人が読むことは現実的に不可能だった。
「聖書の内容は、カトリリック教会の聖職しか知らない」という状況が続いていた。
ルターは、そうした「教会と信者の壁」を徹底的に破壊する。
その代表的な例が、新約聖書をドイツ語に訳したこと。
「新約聖書」のドイツ語訳
ルターによっておこなわれた翻訳。
ルターはヴァルトブルグ城で「新約聖書」のドイツ語訳を完成させ、1534年に初版本を発行した。
一般信者の聖書通読が可能となり、聖書主義の普及にも貢献した。同時に、近代ドイツ語の確立にも繋がった。(世界史用語集 山川出版)
聖書はドイツ語だけではなくて、フランス語や他の言語にも翻訳されて、ヨーロッパの多くの人が読むことでできるようになった。
これで、キリスト教は、カトリック教会だけの特別なものではなくて、誰でも触れることできる「みんなのもの」になった。
プロテスタントでは、このルターの意思をついで、今でも世界中の少数民族の言語に聖書を翻訳していると前に本で読んだことがある。
・プロテスタントの彼女は、スタバで神とつながる。
ルターがしたことで大事なことは、次の2点がある。
・「人は信仰によって救われる」ということを人びとに伝えたこと
・キリスト教をカトリック教会だけのものから、みんなのもの(世俗化)したこと
そんなルターの信仰や意思が、目の前のアメリカ人のプロテスタントに集約されているような気がする。
スタバは、いつでも誰でも入ることが出来る本当に気軽なところ。
そんなスタバにいても、信仰によって神とつながることができるようなキリスト教徒を生み出すために、ルターは宗教改革を行なったのだと思う。
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日本人とキリスト教徒(アメリカ人)との宗教観の違いについては、こちらをどうぞ。
アメリカ人と京都旅行 ~日本人とキリスト教徒の宗教観の違い~ 1~5
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