聖徳太子とムハンマド・仏教とイスラム教の「共通点」

 

はじめの一言

「彼らは何か目新しく素敵な眺めに出会うか、森や野原で物珍しいものを見つけてじっと感心して眺めている時以外は、絶えず喋り続け、笑いこけている。(イザベラバード 明治時代)」
「日本絶賛語録 小学館」

 

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今回の内容

・みんなをまとめるには?
・「ムハンマド~、来てくれ~」
・聖徳太子が仏教を広めた理由
・アラビア半島でイスラーム教が広まった理由

 

・みんなをまとめるには?

学校にとって困るのは、クラスの生徒がバラバラでまとまっていない状態。
授業が成り立たない学級崩壊はもちろんだけど、クラスがひとつになっていないと、空気も白ける。

クラスの生徒をまとめるためには、全員に共通の目標を与えることがいい。

4月や5月に遠足や校外学習をもってくるのも、新しいクラスの生徒に共通の目的(楽しみ)を与えることで、クラスを一つにするという考え方がある。

 

このクラス運営の考え方を国の統治で考えてみる。

国の支配者にとっても困るのは、国の人々がまとまらないで、争ってばかりいる状態。
それでは、国が豊かにならないし、人びとの不満も高まる。
では、どうすれば、人びとをまとめることができるか?

いろいろあるけど、さっきのクラス運営みたいに、共通の目的を与えて考え方を同じにする方法がある。
例えば、宗教を広めるという方法。
違う考えから争っていた人々を、同じ神を信じる「仲間」にしてしまう。

 

 

・「ムハンマド~、来てくれ~」

何でイスラム教が当時のアラビア半島で、多くの人に受け入れられたのか?
これは当時のアラビア半島で、いろいろな部族が争っていたことが関係していた。

当時、氏族間で激しい対立・戦闘があり、人々は疲弊していた。そこでムハンマドは、その調停者として請われて移住することになったのであった

(聖典「クルアーン」の思想 大川玲子)

この「請(こ)われて移住することになった」というのは、多分、「ヒジュラ(聖遷、せいせん)」のことだと思う。

ヒジュラ

西暦622年7月、ムハンマドがメッカからメディナへ移住した出来事

(世界史用語集 山川出版)

 

この出来事はイスラム教でとてもとても大事なこと。
現在イスラム教徒が使っている「イスラム暦」は、この年を「元年」として始まっている。
だから、今年2016年は、イスラム暦だと1394年になる。
当たり前だけど、世界はキリスト教の「西暦」だけじゃない。

 

ムハンマドがいた6世紀のアラビア半島では、多くの部族(氏族)が互いに争っていた。彼らは争いをなくすためにも、イスラム教が必要だと思うようになったという。

 

 

・聖徳太子が仏教を広めた理由

ここで日本に目を向ける。

このムハンマドは、聖徳太子とほぼ同じ時代の人になる。
ムハンマドは570年ごろ生まれていて、聖徳太子(厩戸皇子)は574年に生まれている。

さらに聖徳太子がいたころの日本も、ムハンマドがいたころのアラビア半島に似ている。
この当時の日本でも氏族(豪族)たちが争っていた。

・当時の日本は、「豪族(ごうぞく)」とよばれる有力者が土地や人々を支配し、勢力争いをくりかえしていました。

・とくに太子が重視していたのが、権力争いに明け暮れる豪族(ごうぞく)たちをいましめることでした。

NHK歴史にドキリ聖徳太子~新しい国づくり~

 

こうした豪族たちの争いを背景にして、聖徳太子が出したとも言われるのが、「憲法十七条」。この最初の項目はおなじみのアレですよ。

・十七条の憲法の一番目に書かれています。
『和を以(も)って貴(たっと)しと為(な)す』。
これは、「人の和を大切にしなければなりません。みんな仲良くすることがいちばん大事」ということです(同上)

 

これを一番大切な項目としたということは、この当時の日本には「和」がなくて、争いが多かったということを示している。
聖徳太子が一番悩んでいたのは、クラス運営の先生と同じ(?)で、「みんなをまとめて一つにする」ことだった。
だから、天皇を中心とする集権国家をつくろうと努力していた。

 

聖徳太子が仏教を広めた理由の一つに、この「和(みんな仲良くする)」のため、ということがあるという。
みんなが同じ仏を信仰することで、争いをなくそうとしたというのだ。

 

・アラビア半島でイスラーム教が広まった理由

ここでまたアラビア半島に目を向ける。

これと、似たことを、ムハンマドもしている。
「同じ宗教を信仰することで、争いをなくす」という役割を、イスラーム教がした。

ムハンマドは、何だかんだで、アラビア半島にいたいろんな部族をイスラーム教でまとめて、同じ神を信仰する「兄弟」にした。
そして、アラビア半島に平和をもたらしたのだ!

・この社会内にいる者は、部族的帰属や、古い支配権などの如何を問わず、すくなくとも原則上は、兄弟となった。

・こうして、一撃のもとに、アラビア人の人間関係の決定的紐帯である部族的血縁関係が、新しい紐帯、信仰の紐帯でとって代わられ、アラビアには一種の「イスラムの平和」がもたらされた。

「アラブの歴史 ヒッティ(講談社学術文庫)」

今の日本で「宗教」と聞けば、個人的な信仰をイメージすると思う。
でも、昔は、考えの違う人びとをまとめ、争いをなくして社会の秩序を保つ役割もあった。
支配者は、そういう宗教の「使い方」をすることもあった。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。