はじめの一言
「私は今でも、日露戦争と、日本が勝利を得たことを聞いたときの感動を思いおこすことができる(バー・モウ)」
「日本賛辞の至言33撰 ごま書房」
バー・モウ(ウィキペディア)
1893年2月8日 – 1977年5月29日
ビルマ(現ミャンマー)の独立運動家で政治家。
初代大統領でもあった。
ミャンマーを旅行していて驚いたことがある。
ヤンゴンというミャンマーで最大の都市で日本人の旅行者と出会った。
彼は夏休みを利用してミャンマーを旅行していた大学生。
その旅行者にインパール作戦のことを話していると、彼が「すいません」といってこんな質問をする。
「インパール作戦ってなんすか?」
これを聞いて言葉がなくなってしまった。
大学生でミャンマーに来ているのにインパール作戦を知らないとは!
彼はビルマの竪琴も知らない。
でも今となって考えたら、それがふつうなのかもしれない。
今の20代の旅行者だったら、インパール作戦もビルマの竪琴も知らないのがふつうなのかもしれない。
ミャンマー人にしてみたら、「インパール作戦」という作戦名は知らないけどそれを肌で知っている人は多いと思う。
ミャンマーでお世話になった日本語ガイドからこんな話を聞いたことがある。
彼女の祖父は「クロザトウ」という日本語を知っていた。
これは「黒砂糖」のこと。
その祖父が子どもだったころ、村にやってきた旧日本軍の兵士に食べ物を渡すと、そのお礼に日本兵が黒砂糖をくれたという。
そんなことが何回もあったから、祖父は「クロザトウ」という日本語を覚えてしまった。
祖父は黒砂糖が大好きで、日本人が来ることを心待ちにしていたらしい。
そのミャンマー人のおじいさんにとって、旧日本軍の軍人は今でも「クロザトウの人」という印象しかない。
「インパール作戦」なんて作戦名は知らないだろうし、そもそも日本人がビルマ(ミャンマー)にやって来た理由もよく分かっていないだろう。
援蒋ルート(えんしょうルート)を知っているとも思えない。
このインパール作戦は今も過去のものになってはいない。
5月20日のNHKニュースで、インパール作戦で犠牲になった人たちの追悼式典の様子を伝えていた。
旧日本軍のインパール作戦犠牲者の追悼式典 インド
第2次世界大戦中、最も過酷な戦いの一つと言われた、旧日本軍によるインパール作戦の犠牲者を追悼する式典が、インド北東部で開かれました。
戦後70年たった現在でも、こうして犠牲者の魂に手を合わせている。
それに「インパール作戦」という言葉はこの作戦から離れて、「ムチャなこと」という意味の日本語にもなっている。
補給線を軽視した作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戦の代名詞として現代でもしばしば引用される。
(ウィキペディア)
でも今の若い日本人には、インパール作戦と聞いても「それってなんすか?」と聞き返す人が多いと思う。
でもインパール作戦は、日本人の頭の中からなくなってはいけないこと。
70年前、ミャンマー(ビルマ)でたくさんの日本人が亡くなっている。
何千何万という日本人が、家族のことを思いながらジャングルの中で命を失っている。
今の日本人は観光旅行で東南アジアを訪れることができる。
旅行は思う存分楽しむべき。
でも、そんなことができる平和のありがたさや戦争の悲惨さについて、たまに考えてみることも必要だと思う。
ということで今回は、インパール作戦のことを簡単に書いていきたい。
下の地図でいうと、北海道のあたりにインパールがある。
インパール作戦とは、1944年にミャンマーの東北部でおこなわれた旧日本軍とイギリス軍との戦いのこと。
この作戦は大失敗に終わる。
インパールさくせん【インパール作戦】
無謀な計画のため日本軍は大敗、ガダルカナル以上の惨状を呈した。
大辞林 第三版の解説
このとき日本軍は10万人のうち3万人が死亡したといわれる。
ビルマのジャングルはとても暑いし湿度も高い。
ここでの遺体の腐敗はとても速く、すぐに骨になったという。
日本軍が撤退した道は、そこで息絶えた日本兵の白骨が点々と並ぶ「白骨街道」と呼ばれた。
太平洋戦争の中でも最も無謀な作戦といわれた「インパール作戦」。飢えやマラリアなどの病気で消耗した兵士たちがばたばたと倒れた退却路は「白骨街道」と呼ばれた。
このときの様子をイギリス軍の兵士はこう書いている。
ボロボロの軍服を着た白骨に、別の白骨がもたれかかり、その上にまた別の死体がもたれかかっている。三つ目、四つ目の死体になると、死んで間もないためにまだ内臓が残っており、ウジがわいていた。
「責任なき戦場 インパール (角川文庫)」
また別のイギリス軍兵士は、日本軍の野戦病院でこんな光景を目撃している。
その死体のかたわらには、兵士の妻や子ども、恋人の写真、富士山や桜の花、梅の花の絵葉書、そして日記帳などが落ちていた。今際(いまわ)のきわに、思い断ち難く眺めていたと思われた。胸が締めつけられるような光景だった
(同書)
今の日本人なら、東南アジアに旅行に行ってエネルギーをもらって帰国することができる。
同じ日本で生まれた日本人でも、時代が違うだけでまるで別の人生になってしまう。
上のNHKのニュースではこんな文がある。
亡くなった日本やイギリス、それにインドの兵士らを追悼しました。
このインパール作戦ではインド人によるインド国民軍も旧日本軍といっしょに戦っていた。
*イギリス軍にもインド人兵士はたくさんいる。
インド国民軍のリーダーだったチャンドラボースは今のインドでは英雄になっている。
この人の名前は日本人だったら覚えておく価値はある。
コルカタの空港は彼の名前にちなんで「ネータージー・スバース・チャンドラ・ボース国際空港」と命名されている。
空港にあるチャンドラ・ボースの像
東インドでは、ガンディーよりも人気があるという。
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