はじめに一言。
記事のタイトルに「世界よ、これが日本人だ!」と書いたけど、この記事で出てくるのはボクをふくめた日本の一部の人たちのことです。
ボクが初めて海外旅行に出かけたのは、20年以上も前になる。
バックパッカーとして自由旅行をしていた。
その時と今の旅行を比べると、いろいろな面で本当に変わっている。
まず、そのころはインターネットなんてものはなかった。
世界にはあったのかもしれないけど、一般的には普及していなかったし、ボクは見たことがなかった。
でも、いつの間にか海外旅行にインターネットは不可欠なものになっていて、インターネット・カフェを外国の街のあちこちで見かけるようになる。
そんなインターネットカフェも、WiFiやスマホの登場によってあっという間につぶれてしまった。
日本のパスポートもにICチップが組み込まれるようになったのも、ここ20年の間でのことだ。
20年前に比べたら、旅行の環境や荷物なんかが本当に変わった。
変わらないこともある。
「日本の常識は世界の非常識」
この言葉は20年前も今もよく耳にする。
日本人と外国人のあいだに、価値観や考え方に大きな違いがあるのは仕方がない。
日本は島国で、外国との交流が少なかったからね。
日本には、中国のようにいろいろな民族が混じりあった歴史がない。
中国の唐の時代は、「民族大融合の時代」と言われている。
日本の歴史では「民族大融合」なんて時代はない。
渡来人やヨーロッパ人が日本に来て、影響を与えたことがあるぐらいだ。
日本はアメリカやオーストラリアのような移民の国でもない。
世界中から移民が集まって来たという歴史もない。
四方を海に囲まれているというのは、日本の宿命だ。
そんな島国で生活していると、日本での常識と世界の常識とのあいだにズレが生まれることはよくある。
海外旅行でもときどきそれを感じる。
アンコールワット
カンボジアを旅行中、こんな場面を見た。
カンボジア観光の目玉であるアンコールワットには、世界中から旅行者が集まって来る。
そんなアンコールワットには、外国人旅行者にTシャツや小物などを売る子どもがたくさんいた。
この記事の見出しの写真のように。
その時ボクが見たのは、Tシャツを売る6歳ぐらいの女の子。
その子はサンダルもはかずに裸足のまま。
その子が若い日本人の男性にTシャツを売っていた。
その日本人は何度もこう言う。
「エクスペンシブ!アイム・プアー。ディスカウント!」
(高い!私は貧乏なんだ。値段を下げろ!)
そんな日本人旅行者に、女の子は困った表情を浮かべる。
白人男性がこれを見ていた。
そして激怒する。
「おい!おまえ、何がプアーだ?この女の子を前にして、よくそんなことを言えるな?おまえは恥ずかしくないのか?」
正確には聞き取れなかったけど、そんなことを言っていた。
とにかくその白人はすごい顔をしていた。
ボクも日本人だけど、これについては彼に同情することはできない。
「私は貧乏旅行者です」という言葉は、日本人のバックパッカーの間でなら、常識として通じる。
でも、この常識が外国人に通用することはない。
ボクも、「わたしは貧乏(プアー)です」「お金はありません」なんてインド人に言って怒られたことがある。
「おまえ、プアーってのは、一週間後に生きているかどうか分からないような人間のことを言うんだぞ?海外旅行をしているおまえのどこがプアーなんだ?」
何も言い返せない。
今でも、「わたしは貧乏旅行者です」「貧乏旅行をしてます」なんて言う日本人のバックパッカーはいる。
それ自体に問題ない。
でも、それを言う相手には気をつけた方がいい。
それは日本人になら通じる考え方であって、外国人には通じない。
飛行機に乗って海外旅行をする人間を「プアー」と考える人は、世界にいないだろう。
最近も、日本と世界の価値観や考え方の違いを感じさせるできごとがあった。
沖縄で米軍基地への抗議行動をおこなっていた日本人がスイスの国連本部へ行って、日本政府による人権侵害をうったえた。
この日本人は抗議活動のときに、傷害事件をおこして警察に捕まっている。
そのことをさして彼は、「日本政府が人権侵害を止めるよう求める」と主張したという。
これを聞いた外国人はどう思ったのか?
2017年6月18日付の産経新聞にこう書いてある。
「被害」をことさらアピールした山城被告に、チベットで中国当局の弾圧により同胞が命を落とす深刻な人権侵害を訴える団体は冷ややかな視線を送っていた。
これと似たようなできごとが過去にもあった。
「子どもの権利条約」というものをご存じだろうか?
これは、子どもの基本的人権を国際的に保障するために定められたものだ。
この条約の目的は、18歳未満の子供たちを飢えや病気などから保護することにある。
この子どもの権利条約よって、世界ではこのような変化があらわれたという。
この25年間に、5歳未満の子どもたちの死亡率は低下し、危険な労働を強いられている子どもの数も減少しました。しかし、こうした成果から取り残されている子どもたちもまた数多く存在します。
平成10年に、国連で日本の高校生がある主張をおこなった。
それが波紋を呼ぶ。
高校生が国連の場で、「学校が生徒に制服を着させるのは、子どもの権利条約に反する」と主張したという。
その場にいた外国人がこれに違和感を覚える。
産経新聞の記事から。
京都の高校生らが国連児童の権利委員会で「制服導入は意見表明権を定めた条約に違反する」と訴え、海外委員から「制服もない国の子供に比べて格段に幸せ」などとたしなめられた。
*この報道については「デマ」と主張する人もいる。
視点によって見方は変わってくる。
米軍基地問題も制服の問題も、日本国内の問題なのだから、日本で解決をはかればいい。
国連という外圧を利用して国内問題を解決しようとするのも、日本的な価値観や考え方の現れなのかもしれない。
日本と世界との違いは強みにもなる。
でも、日本人だけにしか通用しないガラパゴス化を生んでしまうことがある。
日本の独自性は、過去に蓄積された文化的・歴史的なものの総体でもある。
だからそのすべてを消去して日本人の頭の中を真っ白な状態にしてから、そこに「世界の価値観や考え方」を書きこむことはできない。
だから、「日本の常識は世界の非常識」という言葉はまだまだ消えないと思う。
おまけ
アンコールワット
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