始めの一言
「いいかね、彼らがみずからが花のように、自然の中に生きていくこんなに素朴な日本人たちがわれわれに教えるものこそ、真の宗教とも言えるものではないだろうか(ゴッホ)」
「日本絶賛語録 小学館」
今回の内容
・未来の日本は?
・多文化共生社会に良いところって?
・日本を「再発見」できる。
・未来の日本は?
これからの日本は、どうなるんだろう?
現時点で、子どもの数が減って老人が増える傾向にあるのだから、将来は、働く人が減って、支えるべき人が増えていくことになる。
単純に、働いて税金を納める人が減ってしまう。
国にお金がなくなったら、老人だけじゃなくて、障害者や生活に困っている人たちを支えることができなくなる。
こうなることは分かっているから、政府では、移民を毎年20万人受け入れることを考えているらしい。
外国人を日本に呼んで働いてもらって、税金を納めてもらうようだ。
月刊正論(2014年6月号)にこう書いてある。
「人口激減の世紀」―。このまま何の対策も講じなければ、未来の歴史学者たちは日本の21世紀をこう呼ぶことだろう。
日本人が減り始めたのは2005年である。この年について、厚生労働省の人口動態統計は、出生数から死亡数を引いた自然増減数が初めて2万1266人のマイナスに転じたと伝えている。
ところが、日本はその後の10年、惰眠をむさぼった。少子化に歯止めがかからず、人口の減少幅だけ年々拡大した。国立社会保障・人口問題研究所によれば、現在約1億2730万人の総人口が、2060年に8674万人に減り、2110年には4286万人にまで落ち込む。
われわれは、こうした未来図を何としても変えなければならない。政府がたどりついた結論は「移民の大量受け入れ」の検討であった。
もちろん今は「そう考えていますよ」という段階で、実際に、毎年20万人の外国人を受け入れるかは分からない。
でもこれからは旅行ではなくて、日本に働くためにやって来る外国人は確実に増えると考えて間違いない。
当然、自分が住んでいる街に外国人が住む可能性は高くなる。
朝ゴミを出しに行ったら、外国人に英語であいさつをするかもしれない。
前までイギリスの移民問題を記事で書いていて、日本も他人事ではなくて、外国人と一緒に暮らすことを考える必要があると感じるようになった。
外国人が日本に働きに来ることが良いことか悪いことかは別として、日本に来るようになるのだから、「外国人と同じ街で一緒に暮らしたらどうなるのだろう」と考えておくことは大切だと思う。
ボクが住んでいる浜松市は、全国的にも、外国人が住む割合が多くて、「多文化共生」都市になっている。
日本に来る外国人が多くなれば、多文化共生の街も増えて来る。
これを読んでいるあなたの街も、そうなるかもしれない。
外国人と一緒に住むことになったら、どのような良いことや悪いことがあるのか?そのことを考えておけば、少なくとも、心の準備はできる。
・多文化共生社会に良いところって?
浜松市のことなら分かるから、浜松を例にとって考えてみた。
ボクの個人的な好き嫌いだけで話をしないように、浜松市のHPから分かる外国人と住むことの良い面を見ていこう。
一番の良いところは、やっぱり、外国人との国際交流でしょ。
浜松市では、「HICE(ハイス)」という機関がそれを行なっている。
HICEはあなたとともに国際交流と地域の多文化共生づくりを進めていきます。
浜松市における市民レベルでの国際交流及び多文化共生の推進母体として情報提供、相談業務、文化紹介などの各種講座研修やイベントなど、国際交流の推進と地域の共生社会づくりを目指しています。
(浜松市HP)
外国に行かなくても、地元でいろいろな外国人と出会うことできるのは、とても良いことだ。個人的にも、これが多文化共生社会の一番うれしいところ。
一度に、メリカ人、ニュージーランド人、ブラジル人、ジャマイカ人などと知り合うことができるのは、こういう国際交流パーティーの他にはなかなかない。
いろいろな外国人が住んでいれば、中国人との交流やニュージーランド人との交流など、自分の興味に合わせて参加することができる。
やる気があっても機会がなかったら、それを生かすことができない。
国際交流の他にも、外国語を格安で学ぶことができるのもいい。
ただ残酷な現実を見ることもある。
英語は人気が高くて、受講生が集まるからいい。
問題は人気がない言語の場合だ。
「○月△日から、~語の講座が始まります。講師の先生は、~」とHPで、受講生の募集をする。
でも、しばらくしてHPを見ると、「~語講座は、募集人数が少なかったので、中止しました」とかあったりする。
仕方がないんだろうけど、笑顔で「よろしくお願いします」と自己紹介していた講師の写真を思い浮かべると、胸が痛くなる。
・日本を「再発見」できる。
交流会で外国人と知合うことができる。
その外国人から見た日本がボクには面白い。
日本で生まれ育ったボクには当たり前すぎて、気づかなかったことに気づいてくれる。
例えばアメリカ人と京都旅行に行ったときは、そのアメリカ人はこんな質問をした。
「何で日本人は自由にお寺や神社に行くことができるのか?何で好きなお守りを選んで買うことができるのか?」
彼女が生まれ育ったニューヨークでは考えられないという。
カトリックの教会、プロテストの教会、モスク(イスラーム教の礼拝所)、仏教のお寺といういろいろな宗教の建物の中から、自分が行きたい場所に行ってお祈りをする人間というのはニューヨークでもいないらしい。
日本人ならほとんどの人がしている。
曹洞宗や浄土宗の宗派の違いは関係ない。というか、自分の宗派を知らなくても、日常生活では問題がない。
仏教や神道の違いも関係なく、お寺にも神社にも行って頭をさげることができる。
言われてみたら、確かに不思議だな、と思って調べたら日本人の宗教観が分かってきた。
こうした「日本再発見」は、外国人の目を通さなかったらできない。
ただ、当たり前だけど、多文化共生社会には、問題もある。
それを次回に書いていきたい。
よかったら、こちらもどうぞ。
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