最近、日本に住んでいるインド人とご飯を食べに行った。
「豚肉と牛肉はダメです!他の食べものでお願いします!」
というこリクエストがあったから、彼を丸亀製麺に連れて行く。
そこで彼は、うどん、おいなりさん、野菜かき揚げを注文する。
「どれが一番おいしい?」と聞いたら、意外にも野菜かき揚げだという。
「インドにもこれとよく似た食べものがあるんです。味もそっくりです」
ということらしい。
うどんを食べながら、彼と日本やインドのことについて話をしていた。
彼との話のなかで、「やっぱりインドは日本と違うなあ」と感じたことがある。
今回は、日本と比べながら「インドってやつはどんな国か?」ということについて書いていきたい。
インドのお城
インドはどんな国か?
まずはとても大きい。
インドは広大な国で、日本の約8.7倍の面積がある。
そしてインドには人が多い。
インドの人口は約13億人で、今では中国と大きく変わらない。
「もうすでにインドは中国を抜いている」という報道もある。
日本の人口のほぼ10倍。
そんなインドから来た彼に「日本とインドはどんなところが違う?」と聞いてみた。
彼は「diversity(多様性)」をあげていた。
別のインド人にも同じ質問をしたことがある。
その時も同じ答えが返って来た。
日本とインドのことを知っているインド人なら、その答えに納得するはず。
日本のインドの大きな違いには、たしかに「インドの多様性」がある。
インドにくわしい清好延氏(故人)も、インドという国の特徴として多様性を指摘している。
インドを一言で表現する言葉としてよく使われるのが、『多様性』という言葉である。
まことにインドを表す言葉としてこれ以上の言葉はない。
人種、宗教、言語、文化、文明等、あらゆる分野で多様性という言葉が適用される「インド人とのつきあい方 清好延」
インドは本当にバラエティ豊かな国。
日本とは比べられないほどの人・言葉・宗教・文化がある。
日本人の友人とご飯を食べに行く時に、「わたしの宗教によって豚肉と牛肉はダメです!他の食べものでお願いします!」なんてことを聞いたことがない。
うどんを食べているときにも、インドの多様性を垣間見ることができた。
少数民族の女の子
彼はインド南西部の生まれで、高校までそこで育っている。
でも高校卒業後、インド北西部にある大学に行くことになった。
ということで、家を出て大学の寮で生活することになる。
その寮では、彼をふくめて4人の大学生が1つの部屋に住んでいたという。
「初めての一人暮らしで困ったことは何ですか?」と聞くと、「言葉でしたね」と彼が言う。
「わたし以外の3人はインド北部の出身で、ヒンドィー語ができるんです。でもわたしはヒンドィー語を話せません。学校でヒンドィー語を習いませんでしたから。だから、ルームメイトとうまく会話ができなかったんです。それが困りましたね」
後で書くけど、インドでヒンドィー語は連邦公用語になっている。
でも、学校でそれを教えないところもある。
こんなことは日本だったら起こらない。
日本語を教えない学校。
日本にそんなところがあるわけない。
でもその時、彼はヒンドィー語を聞けばその意味を理解することはできたらしい。
でも話すことはできない。
そういうわけで、インド人のルームメイトと会話をする時、彼はヒンドィー語を聞いて英語で話していたという。
ルームメイトはヒンドィー語を話して彼はそれを聞いて英語で答える、という状態になる。
日本人同士の会話だったら、こんな不自然なことはない。
1人は日本語を話して、相手は英語で答える。
そんな会話をおこなう。
日本でそんなことは起こらないけど、インドでは当たり前で珍しくもないという。
それがインドの多様性だ。
彼の場合、1年ぐらいでヒンドィー語を話せるようになった。
だから、その後はヒンドィー語で会話をしていたという。
彼の話を聞いて、別のインド人の話を思い出した。
彼は新婚旅行でインドの「シッキム」というところへ行っている。
シッキムはインド北部にあって、ネパールやブータンに近い。
景色が良いところらしい。
彼がシッキムのホテルでチェックインするときに、こんなことがあった。
フロントのスタッフはヒンドィー語が分からない。
そのインド人はヒンドィー語ができるけど、シッキムの言葉は分からない。
それで英語で話をしたという。
でもこんなことは、インドでは常識の範囲内。
国内旅行で言葉が通じないことはよくあるという。
日本でこんなことは考えられない。
日本の大学生が「日本人のルームメイトだけど、彼の言葉が分からない」なんて聞いたことがない。
「旅行で地方へ行ったら日本語が通じかった。だから英語で話をした」なんてことも起こりえない。
日本でいう「言葉の壁」は外国で感じるもので、国内旅行でそんな壁はまったくない。
でもインドでは、国内に言葉の壁が存在している。
だからそれを乗り越えるためには、英語が必要になる。
ここでいう「言葉の違い」というのは「方言の違い」というレベルではない。
言語がまったく違う。
インド人に話を聞くと、別の州に行くと文字が違うから新聞を読むことができなくなるという。
だからヒンドィー語か英語で書いてある新聞を読むしかない。
この100ルピー札には、ヒンディー語と英語の他に15の文字がある。
合計17の言語で「100(ルピー)」と書いてある。
インドの言葉の多様性はこんな状態。
連邦公用語はヒンディー語、他に憲法で公認されている州の言語が21
まさにカオス。
憲法で公認されていない言葉もたくさんある。
一説には、インドには千以上もの言葉があるという。
インドにあるすべての文字をお札に書くなんてことは、とてもはできない。
憲法で公認されている言語は21もある。
だから、お札には「最低限必要な文字として15の文字がある」ということになる。
日本のお札に必要な言語は日本語と英語だけでじゅうぶん。
お札の英語は外国人のためのもので、日本人だったらそれもいらない。
「お札には15種類の文字を書く必要がある」なんていうインドの常識は、日本ではあり得ない非常識になる。
インドの多様性には、他にも民族、宗教、文化などがある。
日本とインドのもっとも大きな違いは「多様性」といってもいいだろう。
日本に住んでいるアメリカ人からこんな質問をされたことがある。
「なあ、なんで5円玉だけ(算用)数字が書いてないんだ?」
たしかに他の硬貨には1、50、100、500と数字がある。
でも5円玉には数字がない。
アメリカ人に聞かれるまで、そんなことにまったく気がつかなかった。
調べてみたら、「五円玉には数字がない!」ということはたくさんの人が話題にしている。
「grape」にこんな記事があった。
造幣局広報室に尋ねてみると、五円玉のデザインを決める際には、いくつかの案が作られ、それを元に議論して決定した。その際の採用案が当初から「漢字のみ」のデザインで、それを特に手直ししないまま正式決定となったのだという。
「日本人なら漢字だけで大丈夫」という発想があったらしい。
こんな日本の常識も、インドではあり得ない非常識になるはず。
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